一昨日の続きです。
古典文学の中の厄年の記載を見てきましたが、今日は古記録の中の記述を見ていきましょう。
東京大学史料編纂所の
大日本史料総合データベースから一気に検索します^^;
綱文を検索範囲にして「厄」を検索してみましょう。
そして、年月日からその方の年齢を計算してみます。
●まず平安時代の記録から・・・
【編/冊】 大日本史料 1編8冊458頁
【和暦年月日】 天慶8年4月24日(09450040240) 1条
【綱文】 天台座主義海をして、仁王経一千部を読誦して、御厄年を禳はしむ、
朱雀天皇23歳のことですね。
本文には「貞信公記抄」からの引用で、「・・・・是大流星占、縁御年合也」とあります。
【編/冊】 大日本史料 1編10冊830頁
【和暦年月日】 応和1年1月8日(09610010080) 2条
【綱文】 (第二条)御厄年に依り、権律師喜慶をして、尊勝法を修せしめ、僧正延昌をして、延暦寺に不動法を修せしむ、又僧二十口をして、大般若経を転読せしむ、
村上天皇36歳のことです。
【編/冊】 史料綜覧 2編902冊212頁
【和暦年月日】 治暦1年3月22日(10650030220) 1条
【綱文】 皇太后、米一百斛を延暦寺中堂に寄附あらせられて、皇太子の厄運を祈禳し給ふ、
皇太子とは尊仁親王(後三条天皇)のことで32歳です。
【編/冊】 史料綜覧 2編902冊252頁
【和暦年月日】 承保1年6月28日(10740060280) 1条
【綱文】 参議源経信を伊勢に発遣し、宸筆の宣命を大神宮に奉り、災厄を祈禳し給ふ、
これは白河天皇22歳ですね。
【編/冊】 大日本史料 3編7冊1頁
【和暦年月日】 康和5年5月4日(11030050040) 1条
【綱文】 御重厄等に依りて、尊星王法を修し給ふ、
堀河天皇25歳の厄年。
【編/冊】 大日本史料 3編11冊5頁
【和暦年月日】 天永1年8月8日(11100080080) 2条
【綱文】 (第二条)法皇、御厄御祈として、石清水八幡宮に御唐鞍及び御馬を献じ給ふ、
白河法皇58歳です。
●次に鎌倉時代です。
【編/冊】 大日本史料 4編11冊341頁
【和暦年月日】 建暦1年12月28日(12110120280) 1条
【綱文】 実朝。栄西等をして、明年の歳厄を禳はしむ、
明年の歳厄ということですから、源実朝21歳の厄でしょうか。
この出典を見てみると、吾妻鏡で「将軍家明年依相当太一定分御厄・・・」とあります。
【編/冊】 史料綜覧 5編905冊376頁
【和暦年月日】 正應4年8月1日(12910080010) 1条
【綱文】 後深草法皇、御重厄御祈の爲に、慈助法親王をして、常盤井殿に七佛藥師法を修せしめ給ふ、
これは後深草法皇の49歳の厄のことですね。
●次に室町時代です。
【編/冊】 大日本史料 6編5冊407頁
【和暦年月日】 暦応2年1月是月(13390010660) 1条
【綱文】 足利義詮、歳厄を鶴岡八幡宮に祈る、
これは足利義詮が10歳の厄です。
【編/冊】 大日本史料 6編9冊732頁
【和暦年月日】 貞和2年1月4日(13460010040) 1条
【綱文】 尊氏、三宝院賢俊をして、重厄を祈らしむ、
足利尊氏42歳の厄。
【編/冊】 大日本史料 6編10冊167頁
【和暦年月日】 貞和2年10月13日(13460100130) 1条
【綱文】 尊氏、三宝院賢俊をして、地蔵法を修して重厄を祈らしむ、
この年2回目の厄祓いでしょうか?足利尊氏42歳の厄。
【編/冊】 大日本史料 6編11冊363頁
【和暦年月日】 貞和4年1月18日(13480010180) 3条
【綱文】 入道尊円親王、冥道供を修し、直義の厄年を祈り給ふ、
足利直義43歳の厄ですね。
【編/冊】 大日本史料 6編21冊188頁
【和暦年月日】 延文2年1月28日(13570010280) 2条
【綱文】 義詮、稲荷祇園両社をして、尊氏の歳厄を祈禳せしむ、
足利尊氏53歳の厄です。
【編/冊】 大日本史料 6編21冊206頁
【和暦年月日】 延文2年2月10日(13570020100) 2条
【綱文】 三宝院賢俊、身を以て尊氏の歳厄に代らんことを石清水八幡宮に祈る、
同じく足利尊氏53歳の厄。1月に続いての厄祓いです。
【編/冊】 大日本史料 6編31冊397頁
【和暦年月日】 応安3年1月30日(13700010300) 1条
【綱文】 北朝、前大僧正良瑜をして、禁中に金剛童子法を修し、後光厳天皇の御重厄を禳はしむ、是日、結願、良瑜に牛車を聴す、
後光厳天皇33歳の厄。
【編/冊】 大日本史料 6編32冊67頁
【和暦年月日】 応安3年4月1日(13700040010) 2条
【綱文】 北朝、入道尊道親王をして、禁中に帝釈供を修せしめ、尋で、如法仏眼法を修せしめて、後光厳天皇の御重厄を祈禳せしむ、
これも後光厳天皇33歳。
【編/冊】 史料綜覧 6編907冊88頁
【和暦年月日】 康暦1年4月28日(13790040280) 2条
【綱文】 足利氏満、遍照院権僧正頼印をして、太一定分の厄を禳はしむ、是日、上杉憲方、伊豆より鎌倉に還る、
足利氏満21歳の太一定分の厄ですね。
【編/冊】 史料綜覧 6編907冊157頁
【和暦年月日】 至徳2年3月16日(13850030160) 1条
【綱文】 足利氏満、太一定分の重厄に丁るを以て、権僧正頼印をして、仁王経法を修せしむ、
足利氏満27歳の太一定分の厄ですね。
【編/冊】 史料綜覧 6編907冊190頁
【和暦年月日】 明徳1年1月18日(13900010180) 2条
【綱文】 義満、大僧正良瑜を請じて、尊星王法を其第に修し、重厄を祈禳す、
足利義満33歳の厄です。
【編/冊】 史料綜覧 6編907冊192頁
【和暦年月日】 明徳1年5月9日(13900050090) 1条
【綱文】 義満、北斗七壇法を其第に修し、重厄を祈禳す、
これも足利義満33歳。
【編/冊】 大日本史料 7編3冊812頁
【和暦年月日】 応永6年1月是月(13990010660) 2条
【綱文】 (第二条)義満、重厄祈禳の為めに、東寺長者俊尊をして、北野社に参篭せしむ、
足利義満42歳の厄。
【編/冊】 大日本史料 7編3冊816頁
【和暦年月日】 応永6年2月3日(13990020030) 1条
【綱文】 東寺寺務長者俊尊、義満の重厄祈禳の為めに、其渡領大和弘福寺及び同寺領同国河原荘を東寺に寄進し、義満、其寄進状に加判す、
これも足利義満42歳。
【編/冊】 大日本史料 7編28冊171頁
【和暦年月日】 応永24年12月13日(14170120130) 5条
【綱文】 足利義持、明年重厄なるに依り、醍醐寺・東寺をして修法せしむ、
足利義持32歳の明年ですから33歳の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊441頁
【和暦年月日】 應永25年1月是月(14180010660) 1条
【綱文】 後小松上皇御重厄御祈、
後小松上皇42歳の厄
【編/冊】 大日本史料 7編30冊44頁
【和暦年月日】 応永25年正月是月(14180010660) 2条
【綱文】 後小松上皇御重厄御祈、
これも同じく後小松上皇42歳。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊536頁
【和暦年月日】 應永34年5月18日(14270050180) 2条
【綱文】 義持、重厄に依り、理性院宗観をして、三條八幡宮に駄都護摩を修せしめ、報恩院隆寛をして、六條八幡宮に愛染護摩を修せしむ、
足利義持42歳の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊538頁
【和暦年月日】 應永34年7月18日(14270070180) 1条
【綱文】 義持、三寶院満済をして、護摩を修し、重厄を祈禳せしむ、尋で、又尊勝護摩、不動護摩、及び閣魔天を修せしむ、
これも足利義持42歳の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊570頁
【和暦年月日】 永享1年12月30日(14290120300) 5条
【綱文】 義教、諸寺をして、明年の厄を祈禳せしむ、
足利義教36歳の明年ですから37歳の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊597頁
【和暦年月日】 永享3年12月27日(14310120270) 2条
【綱文】 義教、東寺をして、明年の歳厄を祈禳せしむ、
足利義教38歳の明年ですから39歳の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊598頁
【和暦年月日】 永享4年1月7日(14320010070) 2条
【綱文】 義教、醍醐寺三寶院をして、愛染護摩法を同院に修して、歳厄を禳はしむ、
足利義教39歳の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊645頁
【和暦年月日】 永享7年1月23日(14350010230) 1条
【綱文】 義教、三寶院満済等をして、歳厄を祈禳せしむ、
足利義教42歳の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊645頁
【和暦年月日】 永享7年1月25日(14350010250) 1条
【綱文】 義教、歳厄祈禳の為めに、護持僧を結番して、祈祷を輪修せしむ、
これも足利義教42歳。二日後ですね。
【編/冊】 史料綜覧 7編907冊676頁
【和暦年月日】 永享10年3月4日(14380030040) 2条
【綱文】 義教、大法を修して、歳厄を祈禳す、
足利義教45歳。
【編/冊】 史料綜覧 7編908冊122頁
【和暦年月日】 寛正2年3月3日(14610030030) 1条
【綱文】 義政、興福寺をして、太一定分の厄を禳はしむ、
足利義政26歳?の太一定分の厄。
【編/冊】 史料綜覧 7編908冊136頁
【和暦年月日】 寛正3年1月10日(14620010100) 1条
【綱文】 義政、歳厄を大神宮に祈禳す、
足利義政27歳。
【編/冊】 史料綜覧 7編908冊151頁
【和暦年月日】 寛正4年1月10日(14630010100) 1条
【綱文】 義政、歳厄を大神宮に祈る、
足利義政28歳。
【編/冊】 史料綜覧 7編908冊220頁
【和暦年月日】 文正1年11月28日(14660110280) 1条
【綱文】 義政、東寺をして、明年の災厄を祈禳せしむ、
足利義政31歳の明年、32歳。
●次に戦国時代です。
【編/冊】 大日本史料 8編6冊13頁
【和暦年月日】 文明4年12月21日(14720120210) 1条
【綱文】 幕府、伊勢大神宮祭主藤波秀忠に命じて、義政父子の重厄を祈禳せしむ、
足利義政37歳、足利義尚8歳
【編/冊】 大日本史料 8編7冊115頁
【和暦年月日】 文明5年12月21日(14730120210) 1条
【綱文】 幕府、神宮祭主藤波秀忠に命じて、義政、義尚父子、明年の厄を禳はしむ、
足利義政38歳の明年39歳。
足利義尚9歳の明年10歳。
【編/冊】 大日本史料 8編7冊439頁
【和暦年月日】 文明6年4月8日(14740040080) 1条
【綱文】 実相院僧正増運に勅して、御重厄を祈禳せしめ給ふ、義政供料を進献す、
後土御門天皇33歳の厄。
【編/冊】 大日本史料 8編8冊342頁
【和暦年月日】 文明7年11月13日(14750110130) 1条
【綱文】 幕府、神宮祭主藤波秀忠をして、義政、義尚の明年の厄を禳はしむ、
足利義政40歳の明年41歳。
足利義尚11歳の明年12歳。
【編/冊】 大日本史料 8編9冊902頁
【和暦年月日】 文明9年12月26日(14770120260) 1条
【綱文】 土御門有宣に命じて、皇子(勝仁)、の除厄祈祷の日時を勘進せしむ、
勝仁親王12歳の明年のことでしょうか?ならば13歳
【編/冊】 大日本史料 8編15冊106頁
【和暦年月日】 文明15年1月23日(14830010230) 1条
【綱文】 今年御重厄に当らせらるゝに依り、近臣等、毎月京都平等寺(因幡堂、)薬師に詣でゝ、之を祈禳す、
後土御門天皇42歳の厄。
【編/冊】 大日本史料 8編15冊365頁
【和暦年月日】 文明15年4月30日(14830040300) 1条
【綱文】 御重厄に依り、諸社寺に命じて、之を祈祷せしむ、
これも後土御門天皇42歳。
【編/冊】 大日本史料 8編17冊782頁
【和暦年月日】 文明17年12月6日(14850120060) 1条
【綱文】 明年御星厄に依り、陰陽頭土御門有宗をして祈禳せしめらる、
後土御門天皇44歳の明年、45歳の星厄。
【編/冊】 大日本史料 8編35冊255頁
【和暦年月日】 延徳2年2月7日(14900020070) 1条
【綱文】 御歳厄に依り、薬師像一万四千体を摺写し、梶井尭胤法親王をして、之を供養せしめらる、
後土御門天皇49歳。
【編/冊】 史料綜覧 8編908冊677頁
【和暦年月日】 延徳3年12月29日(14910120290) 2条
【綱文】 諸社寺をして、明年の御重厄を祈禳せしむ、
後土御門天皇50歳の明年、51歳。
【編/冊】 史料綜覧 8編908冊680頁
【和暦年月日】 明應1年2月23日(14920020230) 1条
【綱文】 近臣を京都平等寺(因幡堂)、に遣して、御重厄を祈禳せしめらる、
後土御門天皇51歳。
【編/冊】 史料綜覧 8編909冊58頁
【和暦年月日】 明應6年12月13日(14970120130) 1条
【綱文】 近臣をして、月毎に平等寺(因幡堂)に代詣せしめ、歳厄を祈禳せしめらる、是日畢る、
後土御門天皇56歳
【編/冊】 大日本史料 9編3冊861頁
【和暦年月日】 永正9年1月20日(15120010200) 1条
【綱文】 御重厄に依り、廷臣等を山城平等寺に遣し、祈祷せしめらる、尋で、天台座主三千院尭胤法親王をして、寿命経の摺写開眼供養を行はしめらる、
柏原天皇49歳。
【編/冊】 大日本史料 9編10冊363頁
【和暦年月日】 永正17年1月24日(15200010240) 1条
【綱文】 (第一条)御重厄に依り、廷臣等、因幡堂薬師に代参す、
後柏原天皇57歳
【編/冊】 史料綜覧 9編909冊758頁
【和暦年月日】 天文5年6月23日(15360060230) 2条
【綱文】 明年御歳厄に依り、宮女をして、七觀音に代参せしめらる、
後奈良天皇39歳。
【編/冊】 史料綜覧 9編910冊234頁
【和暦年月日】 天文14年是歳(15450660550) 1条
【綱文】 武田晴信、近江多賀社に除厄長壽等を立願す、
武田晴信(信玄)25歳の厄ですね。
●次に江戸時代です。
【編/冊】 大日本史料 12編1冊201頁
【和暦年月日】 慶長8年3月26日(16030030260) 1条
【綱文】 (第一条)御厄年なるにより、御近臣に命じて、因幡堂に代詣せしめ給ふ、
後陽成天皇33歳。
【編/冊】 大日本史料 12編1冊446頁
【和暦年月日】 慶長8年8月21日(16030080210) 1条
【綱文】 (第一条)女院、天皇の宝算尚少く、且つ御厄年に当らせ給ふを以て、其周易御伝授の事を停め給ふ、
これも後陽成天皇33歳。
【編/冊】 史料綜覧 12編917冊151頁
【和暦年月日】 寛永14年2月18日(16370020180) 1条
【綱文】 曼殊院良恕親王をして、七箇日護摩法を修し、上皇の厄歳を禳はしめらる、
後水尾上皇42歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 承應2年12月29日(16530120290) 1条
【綱文】 辛卯、勅して、神宮に明年法皇の歳厄を祈禳せしむ、
後水尾法皇58歳の明年、59歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 明暦1年1月29日(16550010290) 2条
【綱文】 天皇の厄年に値るを以て、近臣、平等寺薬師堂に詣す、
後西天皇18歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 貞享4年12月4日(16870120040) 1条
【綱文】 戊申、将軍綱吉、厄年に當るを以て、代詣使を伊勢に遣し、物を神宮に献す、
徳川綱吉42歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 貞享4年12月15日(16870120150) 3条
【綱文】 幕府親藩及ひ老臣以下、将軍の厄年を以て物を献す、
徳川綱吉42歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保4年是歳(17190660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値るを以て、侍臣をして、毎月因幡薬師に詣らしむ、
中御門天皇18歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保10年11月28日(17250110280) 2条
【綱文】 将軍吉宗、厄年に値るを以て、高家横瀬貞顯をして、伊勢大神宮に代詣せしむ、
徳川吉宗42歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保10年是歳(17250660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値るを以て、近臣をして、毎月因幡薬師に詣せしむ、
中御門天皇24歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保12年是歳(17270660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値たるを以て、侍臣をして、毎月、因幡薬師に詣せしむ、
中御門天皇26歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 元文1年是歳(17360660550) 1条
【綱文】 天皇、厄歳に当るを以て、毎月近習をして因幡薬師に代詣せしむ、
桜町天皇17歳。
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 宝暦1年5月15日(17510050150) 2条
【綱文】 家重、流鏑馬を高田馬場に行ひ、豫め歳厄を穰ふ、又近侍に命して、穴八幡祠に代謁せしむ、
徳川家重40歳でしょうか? 予めというのが微妙です^^;
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 宝暦7年1月26日(17570010260) 1条
【綱文】 戊午、石清水社家に勅して、天皇の厄を禳ひ、併せて皇子降誕を祷らしむ、七日、
桃園天皇17歳。
ふう。
一気にコピペしましたが・・・・。
いろいろあって、面白いですね^^;
今日はここまで。
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