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平成18年平成19年平成20年平成21年平成22年平成23年平成24年平成25年平成26年平成27年平成28年平成29年平成30年平成31年平成32年01月23日:厄年の由来 その4 【[神社神道の豆知識]人生儀礼】
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古典文学の中の厄年の記載を見てきましたが、今日は古記録の中の記述を見ていきましょう。
東京大学史料編纂所の大日本史料総合データベースから一気に検索します^^;
綱文を検索範囲にして「厄」を検索してみましょう。
そして、年月日からその方の年齢を計算してみます。
●まず平安時代の記録から・・・
朱雀天皇23歳のことですね。【編/冊】 大日本史料 1編8冊458頁
【和暦年月日】 天慶8年4月24日(09450040240) 1条
【綱文】 天台座主義海をして、仁王経一千部を読誦して、御厄年を禳はしむ、
本文には「貞信公記抄」からの引用で、「・・・・是大流星占、縁御年合也」とあります。
村上天皇36歳のことです。【編/冊】 大日本史料 1編10冊830頁
【和暦年月日】 応和1年1月8日(09610010080) 2条
【綱文】 (第二条)御厄年に依り、権律師喜慶をして、尊勝法を修せしめ、僧正延昌をして、延暦寺に不動法を修せしむ、又僧二十口をして、大般若経を転読せしむ、
皇太子とは尊仁親王(後三条天皇)のことで32歳です。【編/冊】 史料綜覧 2編902冊212頁
【和暦年月日】 治暦1年3月22日(10650030220) 1条
【綱文】 皇太后、米一百斛を延暦寺中堂に寄附あらせられて、皇太子の厄運を祈禳し給ふ、
これは白河天皇22歳ですね。【編/冊】 史料綜覧 2編902冊252頁
【和暦年月日】 承保1年6月28日(10740060280) 1条
【綱文】 参議源経信を伊勢に発遣し、宸筆の宣命を大神宮に奉り、災厄を祈禳し給ふ、
堀河天皇25歳の厄年。【編/冊】 大日本史料 3編7冊1頁
【和暦年月日】 康和5年5月4日(11030050040) 1条
【綱文】 御重厄等に依りて、尊星王法を修し給ふ、
白河法皇58歳です。
【編/冊】 大日本史料 3編11冊5頁
【和暦年月日】 天永1年8月8日(11100080080) 2条
【綱文】 (第二条)法皇、御厄御祈として、石清水八幡宮に御唐鞍及び御馬を献じ給ふ、
●次に鎌倉時代です。
明年の歳厄ということですから、源実朝21歳の厄でしょうか。【編/冊】 大日本史料 4編11冊341頁
【和暦年月日】 建暦1年12月28日(12110120280) 1条
【綱文】 実朝。栄西等をして、明年の歳厄を禳はしむ、
この出典を見てみると、吾妻鏡で「将軍家明年依相当太一定分御厄・・・」とあります。
これは後深草法皇の49歳の厄のことですね。【編/冊】 史料綜覧 5編905冊376頁
【和暦年月日】 正應4年8月1日(12910080010) 1条
【綱文】 後深草法皇、御重厄御祈の爲に、慈助法親王をして、常盤井殿に七佛藥師法を修せしめ給ふ、
●次に室町時代です。
これは足利義詮が10歳の厄です。【編/冊】 大日本史料 6編5冊407頁
【和暦年月日】 暦応2年1月是月(13390010660) 1条
【綱文】 足利義詮、歳厄を鶴岡八幡宮に祈る、
足利尊氏42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 6編9冊732頁
【和暦年月日】 貞和2年1月4日(13460010040) 1条
【綱文】 尊氏、三宝院賢俊をして、重厄を祈らしむ、
この年2回目の厄祓いでしょうか?足利尊氏42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 6編10冊167頁
【和暦年月日】 貞和2年10月13日(13460100130) 1条
【綱文】 尊氏、三宝院賢俊をして、地蔵法を修して重厄を祈らしむ、
足利直義43歳の厄ですね。【編/冊】 大日本史料 6編11冊363頁
【和暦年月日】 貞和4年1月18日(13480010180) 3条
【綱文】 入道尊円親王、冥道供を修し、直義の厄年を祈り給ふ、
足利尊氏53歳の厄です。【編/冊】 大日本史料 6編21冊188頁
【和暦年月日】 延文2年1月28日(13570010280) 2条
【綱文】 義詮、稲荷祇園両社をして、尊氏の歳厄を祈禳せしむ、
同じく足利尊氏53歳の厄。1月に続いての厄祓いです。【編/冊】 大日本史料 6編21冊206頁
【和暦年月日】 延文2年2月10日(13570020100) 2条
【綱文】 三宝院賢俊、身を以て尊氏の歳厄に代らんことを石清水八幡宮に祈る、
後光厳天皇33歳の厄。【編/冊】 大日本史料 6編31冊397頁
【和暦年月日】 応安3年1月30日(13700010300) 1条
【綱文】 北朝、前大僧正良瑜をして、禁中に金剛童子法を修し、後光厳天皇の御重厄を禳はしむ、是日、結願、良瑜に牛車を聴す、
これも後光厳天皇33歳。【編/冊】 大日本史料 6編32冊67頁
【和暦年月日】 応安3年4月1日(13700040010) 2条
【綱文】 北朝、入道尊道親王をして、禁中に帝釈供を修せしめ、尋で、如法仏眼法を修せしめて、後光厳天皇の御重厄を祈禳せしむ、
足利氏満21歳の太一定分の厄ですね。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊88頁
【和暦年月日】 康暦1年4月28日(13790040280) 2条
【綱文】 足利氏満、遍照院権僧正頼印をして、太一定分の厄を禳はしむ、是日、上杉憲方、伊豆より鎌倉に還る、
足利氏満27歳の太一定分の厄ですね。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊157頁
【和暦年月日】 至徳2年3月16日(13850030160) 1条
【綱文】 足利氏満、太一定分の重厄に丁るを以て、権僧正頼印をして、仁王経法を修せしむ、
足利義満33歳の厄です。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊190頁
【和暦年月日】 明徳1年1月18日(13900010180) 2条
【綱文】 義満、大僧正良瑜を請じて、尊星王法を其第に修し、重厄を祈禳す、
これも足利義満33歳。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊192頁
【和暦年月日】 明徳1年5月9日(13900050090) 1条
【綱文】 義満、北斗七壇法を其第に修し、重厄を祈禳す、
足利義満42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 7編3冊812頁
【和暦年月日】 応永6年1月是月(13990010660) 2条
【綱文】 (第二条)義満、重厄祈禳の為めに、東寺長者俊尊をして、北野社に参篭せしむ、
これも足利義満42歳。【編/冊】 大日本史料 7編3冊816頁
【和暦年月日】 応永6年2月3日(13990020030) 1条
【綱文】 東寺寺務長者俊尊、義満の重厄祈禳の為めに、其渡領大和弘福寺及び同寺領同国河原荘を東寺に寄進し、義満、其寄進状に加判す、
足利義持32歳の明年ですから33歳の厄。【編/冊】 大日本史料 7編28冊171頁
【和暦年月日】 応永24年12月13日(14170120130) 5条
【綱文】 足利義持、明年重厄なるに依り、醍醐寺・東寺をして修法せしむ、
後小松上皇42歳の厄【編/冊】 史料綜覧 7編907冊441頁
【和暦年月日】 應永25年1月是月(14180010660) 1条
【綱文】 後小松上皇御重厄御祈、
これも同じく後小松上皇42歳。【編/冊】 大日本史料 7編30冊44頁
【和暦年月日】 応永25年正月是月(14180010660) 2条
【綱文】 後小松上皇御重厄御祈、
足利義持42歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊536頁
【和暦年月日】 應永34年5月18日(14270050180) 2条
【綱文】 義持、重厄に依り、理性院宗観をして、三條八幡宮に駄都護摩を修せしめ、報恩院隆寛をして、六條八幡宮に愛染護摩を修せしむ、
これも足利義持42歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊538頁
【和暦年月日】 應永34年7月18日(14270070180) 1条
【綱文】 義持、三寶院満済をして、護摩を修し、重厄を祈禳せしむ、尋で、又尊勝護摩、不動護摩、及び閣魔天を修せしむ、
足利義教36歳の明年ですから37歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊570頁
【和暦年月日】 永享1年12月30日(14290120300) 5条
【綱文】 義教、諸寺をして、明年の厄を祈禳せしむ、
足利義教38歳の明年ですから39歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊597頁
【和暦年月日】 永享3年12月27日(14310120270) 2条
【綱文】 義教、東寺をして、明年の歳厄を祈禳せしむ、
足利義教39歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊598頁
【和暦年月日】 永享4年1月7日(14320010070) 2条
【綱文】 義教、醍醐寺三寶院をして、愛染護摩法を同院に修して、歳厄を禳はしむ、
足利義教42歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊645頁
【和暦年月日】 永享7年1月23日(14350010230) 1条
【綱文】 義教、三寶院満済等をして、歳厄を祈禳せしむ、
これも足利義教42歳。二日後ですね。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊645頁
【和暦年月日】 永享7年1月25日(14350010250) 1条
【綱文】 義教、歳厄祈禳の為めに、護持僧を結番して、祈祷を輪修せしむ、
足利義教45歳。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊676頁
【和暦年月日】 永享10年3月4日(14380030040) 2条
【綱文】 義教、大法を修して、歳厄を祈禳す、
足利義政26歳?の太一定分の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊122頁
【和暦年月日】 寛正2年3月3日(14610030030) 1条
【綱文】 義政、興福寺をして、太一定分の厄を禳はしむ、
足利義政27歳。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊136頁
【和暦年月日】 寛正3年1月10日(14620010100) 1条
【綱文】 義政、歳厄を大神宮に祈禳す、
足利義政28歳。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊151頁
【和暦年月日】 寛正4年1月10日(14630010100) 1条
【綱文】 義政、歳厄を大神宮に祈る、
足利義政31歳の明年、32歳。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊220頁
【和暦年月日】 文正1年11月28日(14660110280) 1条
【綱文】 義政、東寺をして、明年の災厄を祈禳せしむ、
●次に戦国時代です。
足利義政37歳、足利義尚8歳【編/冊】 大日本史料 8編6冊13頁
【和暦年月日】 文明4年12月21日(14720120210) 1条
【綱文】 幕府、伊勢大神宮祭主藤波秀忠に命じて、義政父子の重厄を祈禳せしむ、
足利義政38歳の明年39歳。【編/冊】 大日本史料 8編7冊115頁
【和暦年月日】 文明5年12月21日(14730120210) 1条
【綱文】 幕府、神宮祭主藤波秀忠に命じて、義政、義尚父子、明年の厄を禳はしむ、
足利義尚9歳の明年10歳。
後土御門天皇33歳の厄。【編/冊】 大日本史料 8編7冊439頁
【和暦年月日】 文明6年4月8日(14740040080) 1条
【綱文】 実相院僧正増運に勅して、御重厄を祈禳せしめ給ふ、義政供料を進献す、
足利義政40歳の明年41歳。【編/冊】 大日本史料 8編8冊342頁
【和暦年月日】 文明7年11月13日(14750110130) 1条
【綱文】 幕府、神宮祭主藤波秀忠をして、義政、義尚の明年の厄を禳はしむ、
足利義尚11歳の明年12歳。
勝仁親王12歳の明年のことでしょうか?ならば13歳【編/冊】 大日本史料 8編9冊902頁
【和暦年月日】 文明9年12月26日(14770120260) 1条
【綱文】 土御門有宣に命じて、皇子(勝仁)、の除厄祈祷の日時を勘進せしむ、
後土御門天皇42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 8編15冊106頁
【和暦年月日】 文明15年1月23日(14830010230) 1条
【綱文】 今年御重厄に当らせらるゝに依り、近臣等、毎月京都平等寺(因幡堂、)薬師に詣でゝ、之を祈禳す、
これも後土御門天皇42歳。【編/冊】 大日本史料 8編15冊365頁
【和暦年月日】 文明15年4月30日(14830040300) 1条
【綱文】 御重厄に依り、諸社寺に命じて、之を祈祷せしむ、
後土御門天皇44歳の明年、45歳の星厄。【編/冊】 大日本史料 8編17冊782頁
【和暦年月日】 文明17年12月6日(14850120060) 1条
【綱文】 明年御星厄に依り、陰陽頭土御門有宗をして祈禳せしめらる、
後土御門天皇49歳。【編/冊】 大日本史料 8編35冊255頁
【和暦年月日】 延徳2年2月7日(14900020070) 1条
【綱文】 御歳厄に依り、薬師像一万四千体を摺写し、梶井尭胤法親王をして、之を供養せしめらる、
後土御門天皇50歳の明年、51歳。【編/冊】 史料綜覧 8編908冊677頁
【和暦年月日】 延徳3年12月29日(14910120290) 2条
【綱文】 諸社寺をして、明年の御重厄を祈禳せしむ、
後土御門天皇51歳。【編/冊】 史料綜覧 8編908冊680頁
【和暦年月日】 明應1年2月23日(14920020230) 1条
【綱文】 近臣を京都平等寺(因幡堂)、に遣して、御重厄を祈禳せしめらる、
後土御門天皇56歳【編/冊】 史料綜覧 8編909冊58頁
【和暦年月日】 明應6年12月13日(14970120130) 1条
【綱文】 近臣をして、月毎に平等寺(因幡堂)に代詣せしめ、歳厄を祈禳せしめらる、是日畢る、
柏原天皇49歳。【編/冊】 大日本史料 9編3冊861頁
【和暦年月日】 永正9年1月20日(15120010200) 1条
【綱文】 御重厄に依り、廷臣等を山城平等寺に遣し、祈祷せしめらる、尋で、天台座主三千院尭胤法親王をして、寿命経の摺写開眼供養を行はしめらる、
後柏原天皇57歳【編/冊】 大日本史料 9編10冊363頁
【和暦年月日】 永正17年1月24日(15200010240) 1条
【綱文】 (第一条)御重厄に依り、廷臣等、因幡堂薬師に代参す、
後奈良天皇39歳。
【編/冊】 史料綜覧 9編909冊758頁
【和暦年月日】 天文5年6月23日(15360060230) 2条
【綱文】 明年御歳厄に依り、宮女をして、七觀音に代参せしめらる、
武田晴信(信玄)25歳の厄ですね。【編/冊】 史料綜覧 9編910冊234頁
【和暦年月日】 天文14年是歳(15450660550) 1条
【綱文】 武田晴信、近江多賀社に除厄長壽等を立願す、
●次に江戸時代です。
後陽成天皇33歳。【編/冊】 大日本史料 12編1冊201頁
【和暦年月日】 慶長8年3月26日(16030030260) 1条
【綱文】 (第一条)御厄年なるにより、御近臣に命じて、因幡堂に代詣せしめ給ふ、
これも後陽成天皇33歳。【編/冊】 大日本史料 12編1冊446頁
【和暦年月日】 慶長8年8月21日(16030080210) 1条
【綱文】 (第一条)女院、天皇の宝算尚少く、且つ御厄年に当らせ給ふを以て、其周易御伝授の事を停め給ふ、
後水尾上皇42歳。
【編/冊】 史料綜覧 12編917冊151頁
【和暦年月日】 寛永14年2月18日(16370020180) 1条
【綱文】 曼殊院良恕親王をして、七箇日護摩法を修し、上皇の厄歳を禳はしめらる、
後水尾法皇58歳の明年、59歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 承應2年12月29日(16530120290) 1条
【綱文】 辛卯、勅して、神宮に明年法皇の歳厄を祈禳せしむ、
後西天皇18歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 明暦1年1月29日(16550010290) 2条
【綱文】 天皇の厄年に値るを以て、近臣、平等寺薬師堂に詣す、
徳川綱吉42歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 貞享4年12月4日(16870120040) 1条
【綱文】 戊申、将軍綱吉、厄年に當るを以て、代詣使を伊勢に遣し、物を神宮に献す、
徳川綱吉42歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 貞享4年12月15日(16870120150) 3条
【綱文】 幕府親藩及ひ老臣以下、将軍の厄年を以て物を献す、
中御門天皇18歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保4年是歳(17190660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値るを以て、侍臣をして、毎月因幡薬師に詣らしむ、
徳川吉宗42歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保10年11月28日(17250110280) 2条
【綱文】 将軍吉宗、厄年に値るを以て、高家横瀬貞顯をして、伊勢大神宮に代詣せしむ、
中御門天皇24歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保10年是歳(17250660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値るを以て、近臣をして、毎月因幡薬師に詣せしむ、
中御門天皇26歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保12年是歳(17270660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値たるを以て、侍臣をして、毎月、因幡薬師に詣せしむ、
桜町天皇17歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 元文1年是歳(17360660550) 1条
【綱文】 天皇、厄歳に当るを以て、毎月近習をして因幡薬師に代詣せしむ、
徳川家重40歳でしょうか? 予めというのが微妙です^^;
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 宝暦1年5月15日(17510050150) 2条
【綱文】 家重、流鏑馬を高田馬場に行ひ、豫め歳厄を穰ふ、又近侍に命して、穴八幡祠に代謁せしむ、
桃園天皇17歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 宝暦7年1月26日(17570010260) 1条
【綱文】 戊午、石清水社家に勅して、天皇の厄を禳ひ、併せて皇子降誕を祷らしむ、七日、
ふう。
一気にコピペしましたが・・・・。
いろいろあって、面白いですね^^;
今日はここまで。
(決して忘れていたわけではないですよ^^;)
さて、室町時代から江戸時代に広く用いられた漢和辞典「和玉篇」に「厄」字が載っています。
拡大すると・・・
「厄」の字に「ヤク」という音と、「なやむ」の訓が振ってあります。
正に今の私の心境でしょうか・・・^^;
前回までで、「色葉字類抄」や「拾芥抄」では、
厄年=13,25,37,49,61,73,85,97 となっていることがわかりました。
13歳から12刻み、所謂「年男」「年女」です。
ちなみに、沖縄の厄年は今でもこれだとか・・・・・。
もう一つ、太一定分の厄。
3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99,105
ですね。3歳から6歳刻みです。
下のサイトでこんな解説を見つけました。
これは、期日限定の厄ということのようですから、現在の厄年とはちょっと違いますね。(太一という神の遊行(ゆうぎょう)にあるく行宮(あんぐう)の方位と干支の循環とを結びつけた子午の年に生まれた人は寅申(いんしん)の年の三月と九月の子申の寅申の時が定分の厄にあたるという説)
(日刊 鼠小僧)
ここにも、江戸時代以降「大厄」とされる「42歳」はありません。
では、平安時代や鎌倉・室町時代は「42」「33」の厄は無かったのでしょうか?
いくつか古典作品の中から「厄年」と思われる記述を探してみましょう。
先ずは、・・・
①「宇津保物語」楼上下(平安中期)です。
何歳の厄年かは図りかねますが、「左大臣殿が厄年だと言うことで大宴会を・・・・」という記述です。左の大殿の厄年におはするとて、大饗せられねば、今二ところも、何かはとてあれば、「さうざうしかるべい年かな」と人いふ。
http://www.genji.co.jp/utsuho-sub.php?code=23207&file=utsuhoall.txt&word=%A4%B5%A4%A6%A4%B6%A4%A6%A4%B7%A4%AB%A4%EB
②「水鏡」〔12C後〕上・序には、
とあります。33歳の厄ですね。慎(つゝし)むべき年(とし)にて、過ぎにし二月の初午の日、龍蓋寺へ詣で侍(はべ)りて、やがてそれより、初瀬に、たそがれのほどに参(まゐ)り着きたりしに、年の積もりには、いたく苦しう覚えて、師のもとにしばし休み侍(はべ)りし程に、うちまどろまれにけり。初夜の鐘の声におどろかれて、御前に参(まゐ)りて通夜し侍(はべ)りしに、世の中うちしづまる程に、修行者の三十四五などにやなるらんと見えしが、経をいと尊く読むあり。かたはら近く居たれば、「いかなる人のいづこより参(まゐ)り給(たま)へるぞ。御経などの承(うけたまは)らまほしからむには、尋(たづ)ね奉(たてまつ)らん」と云ふに、この修行者言ふやう、「いづこと定めたるところも侍(はべ)らず。少しものゝ心つきて後、この十余年、世のなりまかるさまの心とゞむべくも見え侍(はべ)らねば、人まねに、もし後世や助るとて、斯様に惑ひ歩き侍(はべ)るなり」と言へば、「誠に賢く思(おぼ)し取りたる事にこそ侍(はべ)れ、誰も流石に此の理は思(おも)へども、眞しくは思(おも)ひ立たぬこそ愚に侍(はべ)るめれ。此尼、今まで世に侍(はべ)るは希有の事なり、今日明日とも知らず、今年七十三になんなり侍(はべ)る。三十三を過ぎ難く、相人なども申(まう)し合ひたりしかば、岡寺は厄を転じ給(たま)ふと承(うけたまは)りて、詣で初めしより、慎(つゝし)みの年毎に、二月の初午の日参(まゐ)りつる験にこそ、今まで世に侍(はべ)れば、今年慎(つゝし)むべき年にて、参(まゐ)りつる身ながらもをかしく、今は何にの命かは惜しかるべきと思(おも)ひながら、年此参(まゐ)り慣ひて侍(はべ)るに合せて、軈て此の御寺へも参(まゐ)らんと思(おも)ひ立ちてなん。
http://www.j-texts.com/chusei/rek/mzall.html
この龍蓋寺(岡寺)は厄除けで有名なお寺です。
③「栄華物語」のかがやく藤壷の巻には、「今年ぞ十三にならせたまひける、人のつつしむべき年にてもあり、宿曜などにも心ぼそくのみぞ云ひて侍れば・・・」
④「高国記」の下巻には、「太栄五年四月、高国四十二の重役とて出家す・・・」
とあるそうです。
(ごめんなさい。ネット上では本文テキストを発見できませんでした^^;)
13歳の厄、42歳の厄がでてきました。
他に有名なのは、「源氏物語」(1001~1014)です。
⑤「源氏物語」薄雲にはこうあります。
藤壷が37の厄年で体調を崩し、やがて亡くなってしまいます。[第二段 藤壷入道宮の病臥]
入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三月にはいと重くならせたまひぬれば、行幸などあり。院に別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくて、もの深くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御けしきなれば、宮もいと悲しく思し召さる。
「今年は、かならず逃るまじき年と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざりつれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたて、ことことしう思はむと憚りてなむ、功徳のことなども、わざと例よりも取り分きてしもはべらずなりにける。
参りて、心のどかに昔の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなる折少なくはべりて、口惜しく、いぶせくて過ぎはべりぬること」
と、いと弱げに聞こえたまふ。
三十七にぞおはしましける。されど、いと若く盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見たてまつらせたまふ。
「慎ませたまふべき御年なるに、晴れ晴れしからで、月ごろ過ぎさせたまふことをだに、嘆きわたりはべりつるに、御慎みなどをも、常よりことにせさせたまはざりけること」
と、いみじう思し召したり。ただこのころぞ、おどろきて、よろづのことせさせたまふ。月ごろは、常の御悩みとのみうちたゆみたりつるを、源氏の大臣も深く思し入りたり。限りあれば、ほどなく帰らせたまふも、悲しきこと多かり。
宮、いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず。御心のうちに思し続くるに、「高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心のうちに飽かず思ふことも人にまさりける身」と思し知らる。主上の、夢のうちにも、かかる事の心を知らせたまはぬを、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、思し置かるべき心地したまひける。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text19.html
⑥「源氏物語」 若菜下では、
とあり、紫の上の37歳の厄年を気遣う源氏の姿が描かれています。[第二段 紫の上、三十七歳の厄年]
かやうの筋も、今はまたおとなおとなしく、宮たちの御扱ひなど、取りもちてしたまふさまも、いたらぬことなく、すべて何ごとにつけても、もどかしくたどたどしきこと混じらず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる人は、世に久しからぬ例もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえたまふ。
さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、取り集め足らひたることは、まことにたぐひあらじとのみ思ひきこえたまへり。今年は三十七にぞなりたまふ。見たてまつりたまひし年月のことなども、あはれに思し出でたるついでに、
「さるべき御祈りなど、常よりも取り分きて、今年はつつしみたまへ。もの騒がしくのみありて、思ひいたらぬこともあらむを、なほ、思しめぐらして、大きなることどももしたまはば、おのづからせさせてむ。故僧都のものしたまはずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。おほかたにてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」
などのたまひ出づ。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text35.html
源氏物語の注釈書「細流抄」〔1525~34〕六には、「三十七にそ 此年の重厄(チウヤク)此物語に多し。女のつつしむべき年也」と書かれています。
37歳が女の厄年になったのは、この源氏物語が大きな影響を与えているのかも知れませんね。
また、
⑦「源平盛衰記」 〔14C前〕には
治承三年二月二十二日、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を上表あり、今年三十三(さんじふさん)に成給ければ、重厄の慎とぞ聞えし。
http://www.j-texts.com/seisui/gsznb.html
と33歳の厄が出てきます。治承四年四月廿二日、新帝御即位あり。此御事大極殿(だいこくでん)にて被(レ)行事なれども、去し治承元年に焼にしかば、後三条院(ごさんでうのゐん)延久の例に任て、官庁にて有べかりしを、右の大臣兼実計申させ給けるは、官庁は凡人に取ば、公文所也。大極殿(だいこくでん)(有朋上P421)なからん上は、紫宸殿にて可(レ)被(レ)行と被(レ)仰けるに依、即其にてぞ有ける。康保四年十一月十一日、冷泉院御即位は、紫宸殿にて被(レ)行けり。其例いかが有べき。唯後三条院(ごさんでうのゐん)の御例に任て、太政官の庁にて、有べき物をと、人々被(レ)申けれども、右の大臣の恩計也ければ、子細に不(レ)及けり。中宮は弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給(たまひ)て、高御倉へ参らせ給(たま)ひける有様(ありさま)目出ぞ在ける。され共ひそか事には、様々の御さとしども有けるとかや。平家の人々、宗盛三十三(さんじふさん)の重厄の慎とて、去年より大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を辞給(たまひ)て出仕なし。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)薨じ給しかば、維盛、資盛、清経など色にて籠給へり。本意なかりし事也。左兵衛督知盛、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣計ぞ出仕有ける。後朝蔵人左衛門権佐定長、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所に参じて、昨日の御即位に御失礼もなく目出く難(レ)有由、細々と四五枚に書注して、二位殿(にゐどの)の御方へ進たりければ、入道殿(にふだうどの)も二位殿(にゐどの)も、咲まけてぞ御座(おはしまし)ける。
ただ、女性ではないですが・・・・。
何はともあれ、・・・
42歳や33歳、37歳が厄年として、古くから意識されていたことは間違いなさそうです。
次回は、他の古記録類も見ていきましょう。
先日コメントをいただいた満月さんから、『寺門興隆』正月号のコピーをいただきました。
その中に面白いことが書かれていますので、ご紹介します。
(前略)また、同じく江戸中期に、男は四十二歳、女は三十三歳を「大厄」とし、その大厄の前後を前厄・後厄として忌む習わしも定着した。
その大厄の理論的な根拠として当時の日蓮宗の学僧日栄は、儒医から聞いた話をこう説明している(『修験故事便覧』)。
――男は陽にして陰を根差しとし、女は陰にして陽を根差しとする。故に男子は陰数の四十二歳を大厄とする。陰は重(丁)の数であり、陽は半の数である。女は陽数の三十三を大厄とする。
按ずるに男子は十六歳にして陽盛んに精溢れ、六十四歳にして陽精が絶する。したがって四十歳より老の始めとし、陽精が次第に衰えるので、致仕の表(辞職引退願)を提出して辞職して老の命を養う。四十歳以後一両年は、陽の気が衰える界(境界)なので、とりわけ慎むべき年として心するために、四十二の陰数の年を大厄とするのではないか。
また陰は退き陽は進むものである。これは陰陽の常である。四十四歳の陰数を取らず、四十二の年を取るのは、陰は退いて二にかえるという理であるから、四十四の数とかわることはないのである。
陽は一に始まり、進んで三と成る。故に女は三十三歳を大厄とする。凡そ女子は母の胎内にして七月にして髪生え、出生して七月にして歯生え、七歳にして歯生え更まり、二七の十四歳にして月水(月経)が至り、七七の四十九歳にして月水が絶えるものである。したがって三十以後は陰精が衰える始めであるから、三十歳の後の陽数の年を慎み、三十三を大厄としているのであろうか――
現代的な視点からは、疑問点も多い。(後略)
(『寺門興隆』2009年正月号№122 秘められた祈りの形講座(58)厄除け厄払いが寺でも盛んになった縁起と厄年の根拠~豊嶋泰國)
なるほど。
よく考えたものですね。
皆さんはどう思います?
「拾芥抄」によれば、
ということが分かりました。13,25,37、49,61,85,99 (便宜上「拾芥抄A」とします)
あるいは、
13,25,37,49,61,73,97 (便宜上「拾芥抄B」とします)
今日は、昨日紹介した「日国オンライン」で、「厄」を検索してみましょう。
やく【厄】
(中略)
「やくどし(厄年)」の略。
*色葉字類抄〔1177~81〕「厄 ヤク 十三・廿五・卅七・
九・六十一・七十三・八十五・九十七 謂之厄年」
*水鏡〔12C後〕上・序「三十三を過ぎ難く、相人なん共申し合たりしかば、岡寺は厄を転じ給ふと承りて参てそめしより」
*吾妻鏡‐寛元二年〔1244〕五月三〇日「今年令
当
太一定分厄
給、可
被
行
厄御祈
之由、助法印
誉依勘申也」
*実隆公記‐延徳二年〔1490〕二月七日「当年御厄之間別而御願云々」
*宗長手記〔1522~27〕下「数ふれば我が八十の雑事銭、やくとていかが落としやるべき」
*雑俳・柳多留‐二二〔1788〕「品川でやくをよけてるふとい奴」
*社会百面相〔1902〕〈内田魯庵〉犬物語「嬢様漸と安心して先づ是で十九の厄(ヤク)を免れて」
(後略)
「色葉字類抄」にも記載があるようですね。
平安末期の古辞書です。
早速調べてみましょう。
今回は、早稲田大学の古典籍総合データベースにお世話になります。
右ページの真ん中あたりです。ありますね。請求記号:ホ02 00596
出版書写事項:文政10[1827] 光棣(写), [京都]
形態:3冊 ; 27cm
外題:伊呂波字類鈔
享保8年日野資時書写本の写本
朱書入あり
和装
印記:竹屋蔵書
竹屋光棣旧蔵
上,中: 巻上. 下: 8
拡大してみましょう。
確かに、13,25,37,49,61,73,85,97 ですね。
85以外は「拾芥抄B」といっしょです。
また、85は「拾芥抄A」にありますね。
・・・・
何かお気付きですか?
そう、13歳から12刻みです。
ということは・・・・
これって今で言う「年男」「年女」ですね。
例えば、今年は丑年ですが、数え歳のこの年齢の人はすべて「丑年」になります^^;
これが厄年の元々の形なんでしょうか。
だとしたら、とっても分かりやすいですね^^;
干支が一回りするたびに厄年なんですから・・・。
でも何か忘れているような・・・。
そうそう、昨日の記事で書きました。
「拾芥抄」にあった「太一定分」です。
A) B)
「日国オンライン」の「太一」の小見出しに「たいいつの厄」があります。
「定分」は、たいいつの厄陰陽道でいう厄年の一つ。太一星の遊行する方角とその年の干支との関係によってきまる。
*台記‐天養二年〔1145〕六月一二日「先日通憲入道送示云、明年当
太一厄
、前後年有
其慎
」
ですから、「太一定分」というのは「太一の厄」のことでしょう。定められた運命。定められた分(ぶん)。
*空華日用工夫略集‐応安四年〔1371〕一二月一九日「凡人間福祿等、皆有
定分
」
「拾芥抄A」では、
2,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99,109
「拾芥抄B」では、
3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,93,99,105
となっています。
Bに87が無いのと、2と3、109と105が違いますが、あとは同じですね。
「二」と「三」、「百九」と「百五」は誤写しやすいですから仕方ないでしょうか。
9から99まで見てみると・・・
そうですね。基本的に6歳刻みです^^;
ならば、両方を合わせて、
というのが正しいんでしょうか?三歳から6刻みということですね。3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99,105
う~ん。
具体的には、陰陽道でいうところの「太一星の遊行する方角とその年の干支」についても調べなくてはいけませんが、干支がらみということであれば、規則的に6刻みなのも納得できますね。
というわけで、今日はここまで。
非常にまどろっこしい書き方ですが、便利なサイトをご紹介しながら進めてまいりたいと思いますので、お許し下さいね。
さて・・・
昨日は「和魂三才図会」からはじめましたね。
ここまで来ました。7、16、25、34、43、52、61歳が厄年というのは、中国バージョン。
これに対し、日本では
江戸時代に、
男は25、42、61歳、
女は19、33、37歳
中でも男42と女33が大厄である。
そして、その由来、根拠は分からない。
では、別の書物を探してみましょう。
こんな時、手っ取り早いのは、日本国語大辞典(略称:日国)です。
しかも今ではオンライン検索が出来ます。
日国オンライン
有料ですが、用例が豊富なので、調べ物をするときには重宝します。
ここで「厄年」を検索してみましょう。
すると・・・
と出てきます。やくどし【厄年】
陰陽道で、厄難にあうから諸事に慎み深くふるまわなければならないとする年齢。厄払いをする習慣がある。普通、男は二五歳と四二歳、女は一九歳と三三歳。特に男の四二歳と女の三三歳を大厄、その前後の年を前厄・後厄という。厄まわり。やくねん。やく。
*小右記‐寛仁四年〔1020〕一一月二九日「年当
厄運
、可
怖。仍辞退者、依
可
慎
厄年
辞退不
可
然」
*拾芥抄〔13~14C〕下・八卦部「厄年 十三 二十五 卅七 四十九 六十一 八十五 九十九」
*浄瑠璃・曾根崎心中〔1703〕道行「今年はこなさまも廿五歳の厄の年、わしも十九のやくどしとて」
*枕山詩鈔‐初編〔1859〕中・除夜「不材空愧逢
昭代
、多難猶欣過
厄年
」
(
から転じて)災難の多い年。ついていない年。
用例が4つほど載っていますね。
一番古いものは、「小右記」ですね。
「小右記」は、平安時代の公卿藤原実資の日記です。
その「小右記」の寛仁4年11月29日の条に「厄年」の記載があるということですね。
では、この歳の藤原実資の年齢が分かれば・・・
藤原実資は天徳元年(957年)生まれのようですから、寛仁4年(1020年)には数えの64歳?・・・。
じゃあ64歳が厄年と云うことでしょうか?
早とちりはいけませんね。
前後の文脈が分からなければ、何も分かりません。
原文を探してみましょう。
今回は、東京大学古記録フルテキストデータベースを使いましょう。
・・・・ありました。
後ろから3行目です。
確かに書いてありますね。
です。山城守永道辞退狀被下云、若可收欤、若可許納者定申替人者、諸卿申云、辞狀、年當厄運、可怖、仍辞退者、依可愼厄年辞退不可然、・・・・
ざっとですが、「山城守(藤原)永道が厄年を理由に、山城守の職を辞したいと申し出たが許されなかった」ということが書いてあります。
筆者の藤原実資ではなく、藤原永道が厄年ということですね。
では、藤原永道の年齢は何歳だったのでしょうか?
この方についてググってみても有益な情報はなさそうですね・・・・。
(どなたかお助けを・・・笑)
残念ですが、これ以上は、あきらめましょう。
次の用例は「拾芥抄」ですね。
ずばり、厄年の年齢が書いてあります。
13,25,37,49,61,85,99
だそうです。
男女の別は書いてありませんね。
42と33もありません。
う~ん。
これも原点を確認しないと・・・・。
今度は、京都大学電子図書館にお世話になります。
京都大学附属図書館所蔵 重要文化財 『拾芥抄』 [v. 3, pp. 110-111]です。
右ページの真ん中辺ですが・・・
拡大してみましょう。
これによると、「厄年」は・・・
13,25,37,49,61,73,97
ん?「日国」の引用と違いますね・・・・?
別の本を見てみましょう。
京都大学附属図書館所蔵 一般貴重書 『拾芥抄』 [v.5,26/57]
拡大です。
13,25,37、49,61,85,99です。
こちらは「日国」の引用と一緒ですね。
後者は、刊記「寛永壬午孟夏吉旦西村氏吉兵衛新刊」の奥書があり、寛永9年(1632年)の刊本ですが、前者は見ての通り写本です。
解説文には、
とあります。永正七年は西暦1510年ですね。清原枝賢等筆 (中巻)永正七年写
五つ目袋綴 改装・茶色表紙 本文料紙・楮紙に斐紙の裏打
(上)二七・一×二○・三 (中、下)二七・○×二一・三 無辺界 原典句十二行 抄文小字双行
打付書外題・拾芥抄 首題(上)拾芥抄 (中)略要抄 (下)拾芥略要抄 尾題なし
朱・句点・朱引・訓点、墨・和訓、訓点
目録前に「十一月初九日東斗南斗下降全書戊集排日」の墨書
中巻・巻頭前遊紙表に元書題簽(「拾芥抄中」)を付す
中巻末に「右業賢卿筆跡」の墨書貼紙、同巻末遊紙表に「常貞」、「青松」の墨書、下巻末遊紙裏に「右國賢卿」の墨書貼紙あり
奥書・上巻「天正九年〈辛/巳〉初秋上旬」、中巻「永正第七庚午初夏染筆者也(業賢花押)」、下巻「本云/右拾芥抄三帖〈上中/下〉借請左府本書写之但件本以外不/審多少々如本書之了/于時明應元年十一月十四日於灯下終書写之功了/正三位行権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣/親長判」、「本云/這拾芥抄借甘露寺右大弁宰相本於上中巻者若年之/此書写之至下巻無沙汰仍去年以來連々写之老眼/老筆雖無正躰如形終写功畢蚯蛇之跡可愧之/元亀三年八月二日従二位行権大納言藤原朝臣言継六十六才」、「大府卿清原朝臣」
蔵書印「國/賢」、「天師明経儒」、「舩橋蔵書」(以上朱文)、「舩橋」(白文)、「東」(朱文)、「國/賢」(白文黒印)、他に未 判読の黒印一あり
『拾芥抄』の撰者については洞院公賢、洞院実煕の増補とする説、永仁二(一二九四)年の写本のある『本朝書籍目録』に見えることから、否定する説、あるいは現存の『拾芥抄』は『本朝書籍目録』成立後に洞院公賢が改編したものとする説などがある。
内容は『口遊』、『二中歴』などの系列に属する中世の百科全書ともいえる有職故実の事典。『略要抄』『拾芥略要抄』ともいい、『縮芥抄』は『拾芥抄』の抄略本。
本書上巻は清原枝賢、清原國賢筆、一部清原宣賢の筆跡も認められ、中巻は清原業賢筆、下巻は清原國賢筆の取り合わせ本。
う~ん。
ややこしくなってきましたね。
よく見てみると、隣の行に「太一定分」の項が・・・・。
これも一種の厄年のようですが・・・・。
謎がどんどん深まります。
が、今日はここまで。
補足の意味で別エントリーを立てさせていただきます。
厄年は何歳と何歳が正しいのか?
色んな寺社のHPを見てみても、結構バラバラですし、勿論地方差もあります。
そこで少々調べてみることにしました。
今は便利な世の中で、色んな情報がネットで検索できます。
勿論「厄年」についても例外ではありません。
厄年の由来についての説明で多くのブログが「和漢三才図会」を引用しています。
例えば・・・
本当にそうでしょうか?当時(江戸時代)の百科事典である「和漢三才図会」には、
7歳から始まって9を加えた年が厄年と書かれた後に、
「いまは俗に男25、42、61、女19、33、37、男は42をもって女は33をもって大厄となす。
其のよってくる所を知らず、男42の前年を前厄、翌年を挑厄(はねやく)といい、
前後3年を忌む」というただし書が載っています。
元がどのサイトかは分かりかねますが、多くのサイト・ブログでこの文章がコピペされています(笑)
7歳から始まって9を加えた年???
7、16、25、34、43、52、61、・・・?
これは、和漢三才図会(寺島良安)の説?それとも何か出典が??
こういうときは、原典にあたるべし。
ということで、先日紹介した国立国会図書館 近代デジタルライブラリーで和漢三才図会を調べてみました。
ありました。巻之五 暦占類(P92)です。
なるほど。
「厄歳」の項に、「七歳」~「六十一歳」までが列記してあります。
確かに九歳刻みですね。
説明文を見てみましょう。
「按ずるに、素問陰陽二十五人篇に云ふ くだんの歳は皆人の大忌なり 自ら安んぜずんばあるべからざるなり」と読み下すのでしょうか?按素問陰陽二十五人篇云 件歳皆人之大忌 不可不自安也
そしてその後に、
とあります。「これを考るに、初め七歳、以後皆九年を加ふ」ですね。考之初七歳以後皆加九年
ちゃんと出典が書いてあるじゃありませんか。
「素問陰陽二十五人篇」?
「素問」は「霊枢」とともに中国の医学書「黄帝内経」のことですね。
その中の「陰陽二十五人篇」・・・。
ん。「陰陽二十五人篇」は「素問」ではなく「霊枢」の方ですね・・・。
ここに書いてあるんでしょうか?
ありました。
和漢三才図会はこれを引用しているわけですね。黄帝曰.得其形.不得其色.何如.
岐伯曰.形勝色.色勝形者.至其勝時.年加感則病行.失則憂矣.形色相得者.富貴大樂.
黄帝曰.其形色相勝之時.年加可知乎.
岐伯曰.凡年忌.下上之人.大忌常加.七歳.十六歳.二十五歳.三十四歳.四十三歳.五十二歳.六十一歳.皆人之太忌.不可不自安也.感則病行.失則憂矣.
當此之時.無爲姦事.是謂年忌.
(黄帝内経:霊枢 陰陽二十五人第六十四.)
その上で、七歳から九歳刻みだと解説しているわけです。
ただ、
とのことですから、この記事自体は中国のいつ頃の時代のことかは、これだけでは特定できませんね。黄帝内経は、前漢の時代に編纂され鍼経と素問の合計18巻と伝えられている。その内容は散逸して一旦は失われたが、762年唐の時代に王冰の表した素問と霊枢が伝えられている。現代の研究では鍼経(9巻)、もしくは九霊は、霊枢(9巻)のことであるとされている。ただしこの9巻本も散逸してしまって残っていない。現在は1155年に南宋の史崧が霊枢を新たに校訂し24巻81篇として編纂したものが元になっている。
Wikipediaより
また、和漢三才図会は更に続けます。
「今俗に男女の厄を別つ(男は二十五、四十二、六十一、女は十九、三十三、三十七) 男は四十二女は三十三を以て大厄と為す。未だ其の拠を知らず。」です。今俗別男女厄(男二十五、四十二、六十一、女十九、三十三、三十七) 男以四十二女三十三為大厄 未知其拠
()は割り注
つまり、・・・
中国では昔から、7、16、25、34、43、52、61歳を忌み、
これに対し、我が国では今(江戸時代)男は25、42、61歳、女は19、33、37を厄年とし、中でも男42と女33が大厄である。
ということです。
そして、その由来、根拠は分からないと書いてあります。
これでは厄年の由来の説明に、和漢三才図会は使えませんね^^;
う~ん。
もう少し調べてみましょう。
続きはまた今度・・・。
では、「数え年」ってそもそも何なんでしょう?
簡単に言ってしまえば、「昔の年齢の数え方」で、「満年齢に+1歳もしくは+2歳」なんですが・・・。
ちょっと詳しく解説してみますね。
これに対し、「満年齢」は、出生日を「0歳」とし、以後1年間が満了するごとに1歳加算する年齢の数え方。
誕生日の前日午後12時に1歳加齢する。
(2月29日生まれの方は、2月28日が終わった瞬間に歳をとるんですね^^;但し、誕生日については、法律的にはみなし誕生日として2月28日になるみたいですが・・・。)
という年齢の数え方です。「数え年」は、生まれた時点を「1歳」とし、以降元日(1月1日)を迎えるごとに1歳加える。
「満年齢」だと加齢日はみんなバラバラですが、「数え年」はみんなお正月(元旦)に1つ歳を重ねるんです。
「数え年」に誕生「日」は関係ありません。
まずここが大きな違いですね。
人は生まれるときに身体と魂を授かって生まれてきます。
そして、お正月に松飾りをし、鏡餅を供え、「歳神さま」を家に迎え入れて、正月行事をすることによって、歳神さまから新しい「魂」をいただきます。
この「魂」をいただいた数が「数え年」の数え方とも言えます。
という具合です。生まれたときに「一つ」、最初のお正月を迎え「二つ」、次の正月に「三つ」・・・
例えば、・・・
A:昨年の大晦日・平成20年12月31日生まれの赤ちゃんの場合、生まれたときに「数え1歳」で翌日の元旦に「数え2歳」になります。
B:今年の元日・平成21年1月1日生まれの赤ちゃんの場合、生まれたときに「数え1歳」。来年(平成22年)の元旦に「数え2歳」になります。
今日(平成21年1月16日)現在、Aの場合もBの場合も、「満年齢」では「0歳」ですが、「数え年」ではAの場合は「数え2歳」、Bの場合は「数え1歳」となります。
それでは何故、昔は満年齢ではなく、「数え年」を使っていたのでしょう?
これには暦法が関係しています。
明治5年に新暦(太陽暦)に切り替わるまで、我が国では旧暦(太陰太陽暦)を使っていました。
(詳しくは暦の話参照)
この旧暦では約3年に一度、「閏月」が挿入されます。
一年の長さが年によって違うわけですね。
従って、閏月生まれの人の場合、満年齢だと年齢計算が煩雑になってしまうんです。
だから、みんな一斉に正月に歳をとる・・・実に合理的な考え方だと思います。
数え年なら、同級生どうしで「私の方が貴方より●ヶ月若いから・・・」などと言い争わなくても良くなりますね(笑)
もっとも、早生まれの場合は、違ってしまいますが・・・^^;
昔から「数え年」が使われてきた理由がお分かりいただけたでしょうか?
さて、現在日常生活において「数え年」を使わなくなり、「満年齢」を用いるようになってきたのは、法律に規定されているからです。
これが準用する民法には・・・明治三十五年法律第五十号(年齢計算ニ関スル法律)
(明治三十五年十二月二日法律第五十号)
1 年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス
2 民法第百四十三条 ノ規定ハ年齢ノ計算ニ之ヲ準用ス
3 明治六年第三十六号布告ハ之ヲ廃止ス
とあります。民法(明治二十九年四月二十七日法律第八十九号) 「第百四十三条」
(暦による期間の計算)
第百四十三条 週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。
2 週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。
ただ、一般には数え年が用いられ続けました。
しかし戦後、
が出来、以後満年齢が浸透してきたといった流れです。年齢のとなえ方に関する法律
(昭和二十四年五月二十四日法律第九十六号)
○1 この法律施行の日以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律(明治三十五年法律第五十号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。
○2 この法律施行の日以後、国又は地方公共団体の機関が年齢を言い表わす場合においては、当該機関は、前項に規定する年数又は月数によつてこれを言い表わさなければならない。但し、特にやむを得ない事由により数え年によつて年齢を言い表わす場合においては、特にその旨を明示しなければならない。
附 則 抄
○1 この法律は、昭和二十五年一月一日から施行する。
○2 政府は、国民一般がこの法律の趣旨を理解し、且つ、これを励行するよう特に積極的な指導を行わなければならない。
「満年齢」から「数え年」を計算する方法ですが・・・
で計算できます。●誕生日を迎えていない場合
満年齢+2歳
●誕生日を迎えている場合
満年齢+1歳
いずれにしても「数え年」より「満年齢」の方が「若い」ですもんね^^;
現在「数え年」馴染みが無くなりつつあるのは、少しでも若くありたいという希望もあるのでしょうかねぇ・・・。
余談ですが^^;
競走馬の年齢(馬齢)は、生まれたときは「0歳」、以後正月を迎えるたびに「1歳」「2歳」と一つ歳を重ねるんだそうです。
「数え年」に似てますね^^;
母親に今年は前厄だよと言われていたのですが、
昭和45年1月●日生まれは前厄になるんですか?
ネットとかで調べると当てはまらないんですけど…
すみませんが、教えて下さい。
お願いします
まず、厄年は数え年で行います。
数え年は、生まれたときが1歳、その後正月を迎えるたびに1つ歳をとると数え
ます。
(誕生日に関係なく、正月に全ての人が一つ年をとります。)
従って、昭和45年生まれの男性は、数え年で今年40歳です。
ですから、今年ではなく、来年が前厄になります。
です。男性の大厄(平成21年)
前厄 数え41歳 昭和44年生まれ
本厄 数え42歳 昭和43年生まれ
後厄 数え43歳 昭和42年生まれ
●●さまのように昭和45年の早生まれの方の場合、同学年お友達で44年生まれの方が多いと思います。
昭和44年生まれの男性は前厄になりますので、紛らわしいですね。
お母様は、その辺りで勘違いされたのかも知れませんね。
厄年は「数え年」で数えます。
そこがポイントです^^;
「数え年」
「厄年」
については、改めて別エントリーを立てたいと思います。
名前:一文字



「やくどし(厄年)」の略。
九・六十一・七十三・八十五・九十七 謂之厄年」
当
太一定分厄
給、可
誉依勘申也」
陰陽道で、厄難にあうから諸事に慎み深くふるまわなければならないとする年齢。厄払いをする習慣がある。普通、男は二五歳と四二歳、女は一九歳と三三歳。特に男の四二歳と女の三三歳を大厄、その前後の年を前厄・後厄という。厄まわり。やくねん。やく。
から転じて)災難の多い年。ついていない年。