黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉れ。
元を元とし、本を本とする故なり。

名前:一文字
血液型:O型
星座:射手座
脳:右右脳
棲み家:
岡崎天満宮
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- 2006年12月30日の記事
門松に関わるエピソードにはこんなものもあります。
以下、
俗物歳時記より引用
菊池貴一郎の『絵本江戸風俗往来』(一九六五年・平凡社東洋文庫)という本には、「将軍家吉例門松御飾り」という興味ぶかい話が紹介されている。
ぼくなりに砕いて紹介しておきたい。
一五七二年(元亀三)十二月に遠州――いまの静岡県西部にある三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田信玄に敗れ浜松の居城へ逃げこんだ。
武田勢は、なぜか勢いに乗って浜松城を攻め落とすことなく、近くに陣取ったまま新年をむかえた。
このとき武田側から使者が新年の挨拶にひとつの句をもってきたという。おおらかな話だ。
松枯れて竹たぐひなきあした哉
松は徳川家の本姓である松平をさし、竹は武田をさしている。松平家は滅んで武田家のみが栄えゆく、よき年の始めであることよ、という意味だ。
徳川方の智将酒井忠次は、この句に少しだけ手を加えて信玄のもとに送り返した。
松枯れで武田首なきあした哉
松は枯れずに武田信玄の首がとぶ、なんともめでたい元朝であることよ、と。
まつかれて たけたぐひなき あしたかな
まつかれで たけだくびなき あしたかな
仮名で並べて書くとよくわかる。酒井忠次の返した句は、たんに濁点を加え、あるいは濁点の位置を変えただけのこと。澄むと濁るじゃ大違い、である。
この機知に富んだ対応に、こんな智将がいるのでは迂闊に城攻めはできないと考えたのかどうか、やがて信玄は兵を引く。あげくに、そのあと病死してしまうのである。
かたや、家康の武運はそれから開けて天下をとるにいたる。戦乱おさまり、江戸城のすべての門には毎年、先(首)を切り落とした三本の竹でこしらえた縁起のよい門松が飾られるようになったという。
歴史をいろどるエピソードのひとつとして、おもしろい話だ。この徳川将軍家の風習が、やがて町民のあいだにひろまったのだろう。これでぼくの長年の疑問が氷解し、じつにうれしい。
ただ、できすぎの感もぬぐいきれない。案の定、『絵本江戸風俗往来』の本文に添えられた解説を読み進むと、これはフィクションにすぎないと知らされてがっかりする。
いま紹介した竹の先を切り落とした門松の由来譚は一五七三年(元亀四)の話。それ以前に、猪苗代兼載という連歌師が松田という侍のもとで “雪ふりて松たぐひなし朝[あした]哉”という句を詠んだら、書記役が“松だくびなき”と誤って書いてしまった。ふしぎなことに、そのあと松田という侍は実際に首無しになったという。
この話は『多聞院日記』一五四一年(天文十)の記事に出ているそうで、“こういう話が東照公の軍記に採り入れられて、さもまことらしく語られたものではなかろうか”と編者の鈴木棠三[とうぞう]は解説しているのだ。
『日本年中行事辞典』(角川書店)も鈴木棠三の手になる本だ。門松の項にあたってみると、“松枯れて竹たぐひなき旦[あした]かな”という句はすでに『多聞院日記』に室町時代後期の連歌師の柴屋軒宗長がつくった句として出ており、この由来譚はまったく信じがたい話だと否定されている。
当の歌を詠んだという連歌師はちがっているが、家康にまつわる由来譚が否定されている事実にちがいはない。とすると、はたして竹の先が切り落とされた門松の由来はなんだろう――振り出しに舞いもどって、ぼくは頭をかかえこんでしまうのである。
ただ、こういうことは言えるのではないか。つまり、史実の真偽にかかわらず、徳川家ではこの由来譚を喜んで受けいれ、年々代々にわたって竹の首を切り落としためでたい門松を麗々と飾りつづけたと――