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「心の宅急便」
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01月27日:上京 【[旅先から]会議・会合・大会など】
01月26日:宇治橋渡り納め 【[旅先から]神宮・遷宮】
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01月07日:開花いたしました。 【[岡崎天満宮]梅花】
01月06日:新春雑感 【心の宅急便】
今日(もう昨日ですか^^;)は鷽のお話しです。
東京出張のため、J本庁から電話での中継になりました^^;
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今日は素晴らしいお天気になりましたね。
今日は「うそ」の話をさせていただきます。といってもでたらめな話ではないですよ。
「嘘」ではなく「鷽」の話です^^;
さて、一昨日1月25日は初天神でした。
毎月25日は天神さまのご縁日です。
菅公の誕生日が承和12年(845)6月25日、菅公の御命日が延喜3年(903)2月25日ということに由来するのですが・・・。
1月25日は一年最初の25日で、初天神といいます。
この初天神の日には、全国の多くの天満宮で「鷽替え神事」が行われます。
今日はそのお話しをさせていただきましょう。
鷽(うそ)というのは、実在する鳥の名前です。
スズメ目アトリ科の鳥で、体はスズメよりやや大きく、全長15cm、翼長8.5cm。頭の上と尾、翼の大部分は黒色、背中は灰青色。くちばしは太く短く、雄の頬、喉はきれいな淡桃色をしています。
鷽は現在、130円切手デザインのモデルにもなっていますので、一度ご覧になって下さい^^;
鷽(うそ)の語源は、鳴き声が口笛に似ていることから、口笛の古語「嘯(うそぶく)」からきているとも言われています。
で、この鷽をかたどったお守りが全国の天満宮で授与されています。
この鷽のお守りを参詣者同士で「かえましょ、かえましょ」と言いながら取り替え合うのが、「鷽替(うそかえ)神事」です。
太宰府天満宮は1月7日酉の刻。東京の亀戸天神、湯島天神、大阪天満宮などは、初天神の1月25日。京都の北野天満宮は2月25日に行われているようです。
この鷽替え神事の由来ですが・・・
諸説ありますが、江戸時代の初め頃から行われていたようです。
とも言われますし、1.鷽は菅公が愛されたこよなく鳥である。
というものもあります。2.蜂の大群に襲われそうになった菅公を、鷽が救ったという伝説。
(太宰府左遷の翌年一月七日、菅公が神事をされている時に、寒中だというのに
無数の蜂が襲来して参拝者を悩ませたが、一群の「鷽鳥」(うそどり)が飛来して、
蜂を喰い尽くして人々を救った。)
また、
ことから、天神さまと梅と鷽が結びつけられたとも言われていますし、3.鷽は梅の蕾や花を食べる。梅の木に集まる。
ことから、天神さまに所縁のある鳥と考えられたとも言われています。4.「鷽」と「學」の字が似ている。
さて、この鷽替え神事ですが、その信仰の本義は「うそ」を「替える」ことにあります。
●「うそ」を「まこと」に替える
●「凶事」をうそのように「吉事」に替える
ということですね。
菅公は「まこと」と貫いた人でした。
正直の神さまなんです。
知らず知らずのうちに、ついた「ウソ(嘘)」を反省し、「災い事」を鷽に食べて貰うことによって、天神さまのお力で「まこと」「幸運」に替えてもらうということです。
この鷽ですが・・・
全国的には木彫りの鷽が多いと思います。
実は当宮・岡崎天満宮の「鷽」は陶製。(常滑焼き)なんです。
珍しいので、遠方よりお受けに来られる方もあるんですよ。
(実はこのブログのプロフィールに用いているのがその鷽なんです^^;)
さてさて・・・
現在世界中に不景気風が吹いています。
我が国では「詐欺」や「嘘」などが、世の中に蔓延しています。
オバマ大統領の「Change」ではないですが・・・
世の中の「嘘」「災い」を「まこと」「吉事」に「替え」なければならないと、誰もが思うことでしょう。
毎年、年末に世相を表す漢字が話題に上がりますね。
一昨年は「偽」、昨年は「変」でした。
ならば・・・・
鷽鳥さま(天神さま)のお力を借りながら、
今年は「誠」や「真」が選ばれるようになると良いですね。
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来週は、節分祭の為、お休みとさせていただきますm(_ _)m
但し、当日11時30分頃から、節分祭直前の中継があります^^;
お楽しみに?
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>そのご報告です。
(昨日は初天神でバタバタしていましたので、ご報告が遅くなりましたm(_ _)m)
一昨日はこの冬一番の寒さとのこと。
本当に寒い日でした。
岡崎から、東名・伊勢湾岸道・東名阪・伊勢道を進みましたが、長島から御在所付近は雪が舞っていました。
先ずは外宮さんにおまいりです。
お伊勢さんにお参りするときは、外宮→内宮の順にお参りするのが習わしになっています。
流石土曜日ですね。
次から次へと観光バスが入ってきます。
御垣内参拝後、皆さんと記念撮影。
神楽殿には、SSKの遷宮委員Kさんがお見えになりました。
外宮参拝後、内宮に向かいます。
今回のお伊勢まいりのテーマは「宇治橋の渡り納め」です。
実は今年、宇治橋の架け替え工事が行われるんです。
2月2日に「宇治橋万度麻奉下式」というおまつりが行われ、解体工事が始まります。
現在の橋を渡ることが出来るのもあと僅かですね^^;
新橋の渡始式は今年の11月3日に行われるそうですよ。
宇治橋を渡る前に、宇治橋の守り神「饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)」(皇大神宮所管社)にお参りします。
その後宇治橋を渡って、神苑に進みます。
神苑には、渡り納めの記帳所が設けられていました。
今回は神楽殿で御神楽をあげてから、御垣内参拝になりましたが、それにしても物凄い人の数です。
神楽殿では人が入りきれないほどのすし詰め状態・・・。
SSK元参与のOさんも御神楽の受付でお忙しそうに走り回ってみえました。
現参与のTさんは仮設授与所の方で応対をされていましたが、残念ながら人垣に阻まれ、ご挨拶は出来ませんでした^^;
御神楽後、御正宮へ。
SSK前参与のSさんが、わざわざお出まし下さり、ご案内戴きました。
そうそう、帰り道の神苑で、なにやら人だかり・・・。
有名な加子母の獅子舞が行われていました。
Sさん曰く「この場所で獅子舞が出来るのは、この加子母の獅子舞だけ」なんだそうです。
旧加子母村(現岐阜県中津川市)は、式年遷宮の御用材を伐り出す御杣山(みそまやま)のあるところです。
参拝後は、おかげ横町で昼食&散策タイム。
伊勢うどんと手こねずしをいただきました。
その後、渋滞を避けるため、早めに帰路へ。
無事、帰岡できました。
今度は渡り初めですね^^;
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>今回は、娘二人も一緒です。
無事に行って来られますように。
それにしても寒いですね。
バスのナンバー「125」。
お伊勢さんの両正宮以下諸宮社全てを合計すると「125社」です。
これも何かの御縁ですかね^^;
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>先日コメントをいただいた満月さんから、『寺門興隆』正月号のコピーをいただきました。
その中に面白いことが書かれていますので、ご紹介します。
(前略)また、同じく江戸中期に、男は四十二歳、女は三十三歳を「大厄」とし、その大厄の前後を前厄・後厄として忌む習わしも定着した。
その大厄の理論的な根拠として当時の日蓮宗の学僧日栄は、儒医から聞いた話をこう説明している(『修験故事便覧』)。
――男は陽にして陰を根差しとし、女は陰にして陽を根差しとする。故に男子は陰数の四十二歳を大厄とする。陰は重(丁)の数であり、陽は半の数である。女は陽数の三十三を大厄とする。
按ずるに男子は十六歳にして陽盛んに精溢れ、六十四歳にして陽精が絶する。したがって四十歳より老の始めとし、陽精が次第に衰えるので、致仕の表(辞職引退願)を提出して辞職して老の命を養う。四十歳以後一両年は、陽の気が衰える界(境界)なので、とりわけ慎むべき年として心するために、四十二の陰数の年を大厄とするのではないか。
また陰は退き陽は進むものである。これは陰陽の常である。四十四歳の陰数を取らず、四十二の年を取るのは、陰は退いて二にかえるという理であるから、四十四の数とかわることはないのである。
陽は一に始まり、進んで三と成る。故に女は三十三歳を大厄とする。凡そ女子は母の胎内にして七月にして髪生え、出生して七月にして歯生え、七歳にして歯生え更まり、二七の十四歳にして月水(月経)が至り、七七の四十九歳にして月水が絶えるものである。したがって三十以後は陰精が衰える始めであるから、三十歳の後の陽数の年を慎み、三十三を大厄としているのであろうか――
現代的な視点からは、疑問点も多い。(後略)
(『寺門興隆』2009年正月号№122 秘められた祈りの形講座(58)厄除け厄払いが寺でも盛んになった縁起と厄年の根拠~豊嶋泰國)
なるほど。
よく考えたものですね。
皆さんはどう思います?
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>「拾芥抄」によれば、
ということが分かりました。13,25,37、49,61,85,99 (便宜上「拾芥抄A」とします)
あるいは、
13,25,37,49,61,73,97 (便宜上「拾芥抄B」とします)
今日は、昨日紹介した「日国オンライン」で、「厄」を検索してみましょう。
やく【厄】
(中略)
「やくどし(厄年)」の略。
*色葉字類抄〔1177~81〕「厄 ヤク 十三・廿五・卅七・
九・六十一・七十三・八十五・九十七 謂之厄年」
*水鏡〔12C後〕上・序「三十三を過ぎ難く、相人なん共申し合たりしかば、岡寺は厄を転じ給ふと承りて参てそめしより」
*吾妻鏡‐寛元二年〔1244〕五月三〇日「今年令
当
太一定分厄
給、可
被
行
厄御祈
之由、助法印
誉依勘申也」
*実隆公記‐延徳二年〔1490〕二月七日「当年御厄之間別而御願云々」
*宗長手記〔1522~27〕下「数ふれば我が八十の雑事銭、やくとていかが落としやるべき」
*雑俳・柳多留‐二二〔1788〕「品川でやくをよけてるふとい奴」
*社会百面相〔1902〕〈内田魯庵〉犬物語「嬢様漸と安心して先づ是で十九の厄(ヤク)を免れて」
(後略)
「色葉字類抄」にも記載があるようですね。
平安末期の古辞書です。
早速調べてみましょう。
今回は、早稲田大学の古典籍総合データベースにお世話になります。
右ページの真ん中あたりです。ありますね。請求記号:ホ02 00596
出版書写事項:文政10[1827] 光棣(写), [京都]
形態:3冊 ; 27cm
外題:伊呂波字類鈔
享保8年日野資時書写本の写本
朱書入あり
和装
印記:竹屋蔵書
竹屋光棣旧蔵
上,中: 巻上. 下: 8
拡大してみましょう。
確かに、13,25,37,49,61,73,85,97 ですね。
85以外は「拾芥抄B」といっしょです。
また、85は「拾芥抄A」にありますね。
・・・・
何かお気付きですか?
そう、13歳から12刻みです。
ということは・・・・
これって今で言う「年男」「年女」ですね。
例えば、今年は丑年ですが、数え歳のこの年齢の人はすべて「丑年」になります^^;
これが厄年の元々の形なんでしょうか。
だとしたら、とっても分かりやすいですね^^;
干支が一回りするたびに厄年なんですから・・・。
でも何か忘れているような・・・。
そうそう、昨日の記事で書きました。
「拾芥抄」にあった「太一定分」です。
A) B)
「日国オンライン」の「太一」の小見出しに「たいいつの厄」があります。
「定分」は、たいいつの厄陰陽道でいう厄年の一つ。太一星の遊行する方角とその年の干支との関係によってきまる。
*台記‐天養二年〔1145〕六月一二日「先日通憲入道送示云、明年当
太一厄
、前後年有
其慎
」
ですから、「太一定分」というのは「太一の厄」のことでしょう。定められた運命。定められた分(ぶん)。
*空華日用工夫略集‐応安四年〔1371〕一二月一九日「凡人間福祿等、皆有
定分
」
「拾芥抄A」では、
2,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99,109
「拾芥抄B」では、
3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,93,99,105
となっています。
Bに87が無いのと、2と3、109と105が違いますが、あとは同じですね。
「二」と「三」、「百九」と「百五」は誤写しやすいですから仕方ないでしょうか。
9から99まで見てみると・・・
そうですね。基本的に6歳刻みです^^;
ならば、両方を合わせて、
というのが正しいんでしょうか?三歳から6刻みということですね。3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99,105
う~ん。
具体的には、陰陽道でいうところの「太一星の遊行する方角とその年の干支」についても調べなくてはいけませんが、干支がらみということであれば、規則的に6刻みなのも納得できますね。
というわけで、今日はここまで。
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>非常にまどろっこしい書き方ですが、便利なサイトをご紹介しながら進めてまいりたいと思いますので、お許し下さいね。
さて・・・
昨日は「和魂三才図会」からはじめましたね。
ここまで来ました。7、16、25、34、43、52、61歳が厄年というのは、中国バージョン。
これに対し、日本では
江戸時代に、
男は25、42、61歳、
女は19、33、37歳
中でも男42と女33が大厄である。
そして、その由来、根拠は分からない。
では、別の書物を探してみましょう。
こんな時、手っ取り早いのは、日本国語大辞典(略称:日国)です。
しかも今ではオンライン検索が出来ます。
日国オンライン
有料ですが、用例が豊富なので、調べ物をするときには重宝します。
ここで「厄年」を検索してみましょう。
すると・・・
と出てきます。やくどし【厄年】
陰陽道で、厄難にあうから諸事に慎み深くふるまわなければならないとする年齢。厄払いをする習慣がある。普通、男は二五歳と四二歳、女は一九歳と三三歳。特に男の四二歳と女の三三歳を大厄、その前後の年を前厄・後厄という。厄まわり。やくねん。やく。
*小右記‐寛仁四年〔1020〕一一月二九日「年当
厄運
、可
怖。仍辞退者、依
可
慎
厄年
辞退不
可
然」
*拾芥抄〔13~14C〕下・八卦部「厄年 十三 二十五 卅七 四十九 六十一 八十五 九十九」
*浄瑠璃・曾根崎心中〔1703〕道行「今年はこなさまも廿五歳の厄の年、わしも十九のやくどしとて」
*枕山詩鈔‐初編〔1859〕中・除夜「不材空愧逢
昭代
、多難猶欣過
厄年
」
(
から転じて)災難の多い年。ついていない年。
用例が4つほど載っていますね。
一番古いものは、「小右記」ですね。
「小右記」は、平安時代の公卿藤原実資の日記です。
その「小右記」の寛仁4年11月29日の条に「厄年」の記載があるということですね。
では、この歳の藤原実資の年齢が分かれば・・・
藤原実資は天徳元年(957年)生まれのようですから、寛仁4年(1020年)には数えの64歳?・・・。
じゃあ64歳が厄年と云うことでしょうか?
早とちりはいけませんね。
前後の文脈が分からなければ、何も分かりません。
原文を探してみましょう。
今回は、東京大学古記録フルテキストデータベースを使いましょう。
・・・・ありました。
後ろから3行目です。
確かに書いてありますね。
です。山城守永道辞退狀被下云、若可收欤、若可許納者定申替人者、諸卿申云、辞狀、年當厄運、可怖、仍辞退者、依可愼厄年辞退不可然、・・・・
ざっとですが、「山城守(藤原)永道が厄年を理由に、山城守の職を辞したいと申し出たが許されなかった」ということが書いてあります。
筆者の藤原実資ではなく、藤原永道が厄年ということですね。
では、藤原永道の年齢は何歳だったのでしょうか?
この方についてググってみても有益な情報はなさそうですね・・・・。
(どなたかお助けを・・・笑)
残念ですが、これ以上は、あきらめましょう。
次の用例は「拾芥抄」ですね。
ずばり、厄年の年齢が書いてあります。
13,25,37,49,61,85,99
だそうです。
男女の別は書いてありませんね。
42と33もありません。
う~ん。
これも原点を確認しないと・・・・。
今度は、京都大学電子図書館にお世話になります。
京都大学附属図書館所蔵 重要文化財 『拾芥抄』 [v. 3, pp. 110-111]です。
右ページの真ん中辺ですが・・・
拡大してみましょう。
これによると、「厄年」は・・・
13,25,37,49,61,73,97
ん?「日国」の引用と違いますね・・・・?
別の本を見てみましょう。
京都大学附属図書館所蔵 一般貴重書 『拾芥抄』 [v.5,26/57]
拡大です。
13,25,37、49,61,85,99です。
こちらは「日国」の引用と一緒ですね。
後者は、刊記「寛永壬午孟夏吉旦西村氏吉兵衛新刊」の奥書があり、寛永9年(1632年)の刊本ですが、前者は見ての通り写本です。
解説文には、
とあります。永正七年は西暦1510年ですね。清原枝賢等筆 (中巻)永正七年写
五つ目袋綴 改装・茶色表紙 本文料紙・楮紙に斐紙の裏打
(上)二七・一×二○・三 (中、下)二七・○×二一・三 無辺界 原典句十二行 抄文小字双行
打付書外題・拾芥抄 首題(上)拾芥抄 (中)略要抄 (下)拾芥略要抄 尾題なし
朱・句点・朱引・訓点、墨・和訓、訓点
目録前に「十一月初九日東斗南斗下降全書戊集排日」の墨書
中巻・巻頭前遊紙表に元書題簽(「拾芥抄中」)を付す
中巻末に「右業賢卿筆跡」の墨書貼紙、同巻末遊紙表に「常貞」、「青松」の墨書、下巻末遊紙裏に「右國賢卿」の墨書貼紙あり
奥書・上巻「天正九年〈辛/巳〉初秋上旬」、中巻「永正第七庚午初夏染筆者也(業賢花押)」、下巻「本云/右拾芥抄三帖〈上中/下〉借請左府本書写之但件本以外不/審多少々如本書之了/于時明應元年十一月十四日於灯下終書写之功了/正三位行権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣/親長判」、「本云/這拾芥抄借甘露寺右大弁宰相本於上中巻者若年之/此書写之至下巻無沙汰仍去年以來連々写之老眼/老筆雖無正躰如形終写功畢蚯蛇之跡可愧之/元亀三年八月二日従二位行権大納言藤原朝臣言継六十六才」、「大府卿清原朝臣」
蔵書印「國/賢」、「天師明経儒」、「舩橋蔵書」(以上朱文)、「舩橋」(白文)、「東」(朱文)、「國/賢」(白文黒印)、他に未 判読の黒印一あり
『拾芥抄』の撰者については洞院公賢、洞院実煕の増補とする説、永仁二(一二九四)年の写本のある『本朝書籍目録』に見えることから、否定する説、あるいは現存の『拾芥抄』は『本朝書籍目録』成立後に洞院公賢が改編したものとする説などがある。
内容は『口遊』、『二中歴』などの系列に属する中世の百科全書ともいえる有職故実の事典。『略要抄』『拾芥略要抄』ともいい、『縮芥抄』は『拾芥抄』の抄略本。
本書上巻は清原枝賢、清原國賢筆、一部清原宣賢の筆跡も認められ、中巻は清原業賢筆、下巻は清原國賢筆の取り合わせ本。
う~ん。
ややこしくなってきましたね。
よく見てみると、隣の行に「太一定分」の項が・・・・。
これも一種の厄年のようですが・・・・。
謎がどんどん深まります。
が、今日はここまで。
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>補足の意味で別エントリーを立てさせていただきます。
厄年は何歳と何歳が正しいのか?
色んな寺社のHPを見てみても、結構バラバラですし、勿論地方差もあります。
そこで少々調べてみることにしました。
今は便利な世の中で、色んな情報がネットで検索できます。
勿論「厄年」についても例外ではありません。
厄年の由来についての説明で多くのブログが「和漢三才図会」を引用しています。
例えば・・・
本当にそうでしょうか?当時(江戸時代)の百科事典である「和漢三才図会」には、
7歳から始まって9を加えた年が厄年と書かれた後に、
「いまは俗に男25、42、61、女19、33、37、男は42をもって女は33をもって大厄となす。
其のよってくる所を知らず、男42の前年を前厄、翌年を挑厄(はねやく)といい、
前後3年を忌む」というただし書が載っています。
元がどのサイトかは分かりかねますが、多くのサイト・ブログでこの文章がコピペされています(笑)
7歳から始まって9を加えた年???
7、16、25、34、43、52、61、・・・?
これは、和漢三才図会(寺島良安)の説?それとも何か出典が??
こういうときは、原典にあたるべし。
ということで、先日紹介した国立国会図書館 近代デジタルライブラリーで和漢三才図会を調べてみました。
ありました。巻之五 暦占類(P92)です。
なるほど。
「厄歳」の項に、「七歳」~「六十一歳」までが列記してあります。
確かに九歳刻みですね。
説明文を見てみましょう。
「按ずるに、素問陰陽二十五人篇に云ふ くだんの歳は皆人の大忌なり 自ら安んぜずんばあるべからざるなり」と読み下すのでしょうか?按素問陰陽二十五人篇云 件歳皆人之大忌 不可不自安也
そしてその後に、
とあります。「これを考るに、初め七歳、以後皆九年を加ふ」ですね。考之初七歳以後皆加九年
ちゃんと出典が書いてあるじゃありませんか。
「素問陰陽二十五人篇」?
「素問」は「霊枢」とともに中国の医学書「黄帝内経」のことですね。
その中の「陰陽二十五人篇」・・・。
ん。「陰陽二十五人篇」は「素問」ではなく「霊枢」の方ですね・・・。
ここに書いてあるんでしょうか?
ありました。
和漢三才図会はこれを引用しているわけですね。黄帝曰.得其形.不得其色.何如.
岐伯曰.形勝色.色勝形者.至其勝時.年加感則病行.失則憂矣.形色相得者.富貴大樂.
黄帝曰.其形色相勝之時.年加可知乎.
岐伯曰.凡年忌.下上之人.大忌常加.七歳.十六歳.二十五歳.三十四歳.四十三歳.五十二歳.六十一歳.皆人之太忌.不可不自安也.感則病行.失則憂矣.
當此之時.無爲姦事.是謂年忌.
(黄帝内経:霊枢 陰陽二十五人第六十四.)
その上で、七歳から九歳刻みだと解説しているわけです。
ただ、
とのことですから、この記事自体は中国のいつ頃の時代のことかは、これだけでは特定できませんね。黄帝内経は、前漢の時代に編纂され鍼経と素問の合計18巻と伝えられている。その内容は散逸して一旦は失われたが、762年唐の時代に王冰の表した素問と霊枢が伝えられている。現代の研究では鍼経(9巻)、もしくは九霊は、霊枢(9巻)のことであるとされている。ただしこの9巻本も散逸してしまって残っていない。現在は1155年に南宋の史崧が霊枢を新たに校訂し24巻81篇として編纂したものが元になっている。
Wikipediaより
また、和漢三才図会は更に続けます。
「今俗に男女の厄を別つ(男は二十五、四十二、六十一、女は十九、三十三、三十七) 男は四十二女は三十三を以て大厄と為す。未だ其の拠を知らず。」です。今俗別男女厄(男二十五、四十二、六十一、女十九、三十三、三十七) 男以四十二女三十三為大厄 未知其拠
()は割り注
つまり、・・・
中国では昔から、7、16、25、34、43、52、61歳を忌み、
これに対し、我が国では今(江戸時代)男は25、42、61歳、女は19、33、37を厄年とし、中でも男42と女33が大厄である。
ということです。
そして、その由来、根拠は分からないと書いてあります。
これでは厄年の由来の説明に、和漢三才図会は使えませんね^^;
う~ん。
もう少し調べてみましょう。
続きはまた今度・・・。
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>今日は厄年のお話しです。
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今日は暦の上では「大寒」ですね。
一年で最も寒い時期です。
武道の寒稽古や、寒行を行い、精神を鍛える行事も行われます。
神主の世界では寒中禊ぎなども行われるんですよ。
さて、禊ぎにちなんでというわけではありませんが、今日は厄年のお話しをさせていただきます。
厄年というのは、人生の節目で、身体的にも社会的にも大きな転換期に当たる年齢です。
厄年は人生の中で何回かありますが、中でも数え年で、男性は42歳、女性は33歳が大厄とされています。
42歳が「死に」、33歳が「散々」に通じるとも言われます。
この歳は慎んで過ごすのが習わしとなっています。
また、この歳の前後各一年ずつを前厄・後厄といって、三年間が気をつけるべき年齢になります。
●厄年はいつからあるの?
かなり古くからあるようです。平安時代の源氏物語にも記述がありますし、陰陽道にその起源があるようですね。ただ、詳しいことは分かりません。
●厄年は何歳と何歳?
先の大厄以外にもいくつか厄年といわれる年齢があります。
これも色々な説がありますし、地方によっても異なります。
ただ、男42歳と女33歳を厄年の大厄とすることは、最も一般的のようです。
●厄年にはホントに悪いことが起こるの?
個人差もあるでしょうが、人生の節目であり、転換期でもありますから色々なことが起こりやすい時期だと言えるでしょう。厄年の時に病気になったとか、大きな事故にあった等という話は良く聞きますし、古くから忌み慎む年と信じられてきたことにはそれなりの意味があるとも思います。
ただ、あくまでも占いのようなものですので、あまり深刻に気にしすぎるのもどうかとも思いますね。
●厄祓いはどうすればよいのですか?
神社やお寺に参拝して、御祈祷を受けるのが一般的でしょうか。
肌着など身につけているものを落としたり、親戚や知人を招き振る舞いをすることも古くから行われてきました。
勿論、地域によって様々な厄除けの方法もあります。
中には数年前から積立をし、氏神さまの祭礼に餅撒きをしたり、燈籠などを寄進したりすることも行われています。
●厄祓いとか厄除けは何時すれば良いですか?
必ずこの日にしなければならないということはありませんが、数え年で行いますので、お正月から節分前後までに厄祓いをするのが一般的ですね。
●厄年の間はどのように過ごせば良いのでしょう?
最近は、厄年に災いがふりかかるということだけがことさら強調されているような気がします。
今でも厄年になると神事の重要な役を担う神役をつとめる風習が残っている地域もあります。
神事に奉仕するわけですから、慎み(潔斎)が必要なんです。
社会的な責任を負う年齢とも言えますね。
こういったことを考えますと、「厄」=「役」として、色んなお役目を勤める年とも考えられるのではないでしょうか。
厄年を純粋に一つの節目と考え、自らの人生・生活を見つめ直すこと。
そして、神仏への感謝、回りのお世話になった方々や地域への感謝をすることが大切ですね。
役を進んで受けることも必要だと思います。
実は、私も厄年真っ最中でして、それもあってこのラジオのお役を引き受けた次第です(笑)
●厄年を飛躍の年に!
厄年は節目であり、大きな転換期です。
前向きに考えて、力を蓄え、大きく飛躍するターニングポイントにしたいですね。
躍動・躍進・活躍の「躍」ですね。
いかにして「厄」を「役」に替え、「躍」にするかが大事かも知れません。
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>では、「数え年」ってそもそも何なんでしょう?
簡単に言ってしまえば、「昔の年齢の数え方」で、「満年齢に+1歳もしくは+2歳」なんですが・・・。
ちょっと詳しく解説してみますね。
これに対し、「満年齢」は、出生日を「0歳」とし、以後1年間が満了するごとに1歳加算する年齢の数え方。
誕生日の前日午後12時に1歳加齢する。
(2月29日生まれの方は、2月28日が終わった瞬間に歳をとるんですね^^;但し、誕生日については、法律的にはみなし誕生日として2月28日になるみたいですが・・・。)
という年齢の数え方です。「数え年」は、生まれた時点を「1歳」とし、以降元日(1月1日)を迎えるごとに1歳加える。
「満年齢」だと加齢日はみんなバラバラですが、「数え年」はみんなお正月(元旦)に1つ歳を重ねるんです。
「数え年」に誕生「日」は関係ありません。
まずここが大きな違いですね。
人は生まれるときに身体と魂を授かって生まれてきます。
そして、お正月に松飾りをし、鏡餅を供え、「歳神さま」を家に迎え入れて、正月行事をすることによって、歳神さまから新しい「魂」をいただきます。
この「魂」をいただいた数が「数え年」の数え方とも言えます。
という具合です。生まれたときに「一つ」、最初のお正月を迎え「二つ」、次の正月に「三つ」・・・
例えば、・・・
A:昨年の大晦日・平成20年12月31日生まれの赤ちゃんの場合、生まれたときに「数え1歳」で翌日の元旦に「数え2歳」になります。
B:今年の元日・平成21年1月1日生まれの赤ちゃんの場合、生まれたときに「数え1歳」。来年(平成22年)の元旦に「数え2歳」になります。
今日(平成21年1月16日)現在、Aの場合もBの場合も、「満年齢」では「0歳」ですが、「数え年」ではAの場合は「数え2歳」、Bの場合は「数え1歳」となります。
それでは何故、昔は満年齢ではなく、「数え年」を使っていたのでしょう?
これには暦法が関係しています。
明治5年に新暦(太陽暦)に切り替わるまで、我が国では旧暦(太陰太陽暦)を使っていました。
(詳しくは暦の話参照)
この旧暦では約3年に一度、「閏月」が挿入されます。
一年の長さが年によって違うわけですね。
従って、閏月生まれの人の場合、満年齢だと年齢計算が煩雑になってしまうんです。
だから、みんな一斉に正月に歳をとる・・・実に合理的な考え方だと思います。
数え年なら、同級生どうしで「私の方が貴方より●ヶ月若いから・・・」などと言い争わなくても良くなりますね(笑)
もっとも、早生まれの場合は、違ってしまいますが・・・^^;
昔から「数え年」が使われてきた理由がお分かりいただけたでしょうか?
さて、現在日常生活において「数え年」を使わなくなり、「満年齢」を用いるようになってきたのは、法律に規定されているからです。
これが準用する民法には・・・明治三十五年法律第五十号(年齢計算ニ関スル法律)
(明治三十五年十二月二日法律第五十号)
1 年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス
2 民法第百四十三条 ノ規定ハ年齢ノ計算ニ之ヲ準用ス
3 明治六年第三十六号布告ハ之ヲ廃止ス
とあります。民法(明治二十九年四月二十七日法律第八十九号) 「第百四十三条」
(暦による期間の計算)
第百四十三条 週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。
2 週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。
ただ、一般には数え年が用いられ続けました。
しかし戦後、
が出来、以後満年齢が浸透してきたといった流れです。年齢のとなえ方に関する法律
(昭和二十四年五月二十四日法律第九十六号)
○1 この法律施行の日以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律(明治三十五年法律第五十号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。
○2 この法律施行の日以後、国又は地方公共団体の機関が年齢を言い表わす場合においては、当該機関は、前項に規定する年数又は月数によつてこれを言い表わさなければならない。但し、特にやむを得ない事由により数え年によつて年齢を言い表わす場合においては、特にその旨を明示しなければならない。
附 則 抄
○1 この法律は、昭和二十五年一月一日から施行する。
○2 政府は、国民一般がこの法律の趣旨を理解し、且つ、これを励行するよう特に積極的な指導を行わなければならない。
「満年齢」から「数え年」を計算する方法ですが・・・
で計算できます。●誕生日を迎えていない場合
満年齢+2歳
●誕生日を迎えている場合
満年齢+1歳
いずれにしても「数え年」より「満年齢」の方が「若い」ですもんね^^;
現在「数え年」馴染みが無くなりつつあるのは、少しでも若くありたいという希望もあるのでしょうかねぇ・・・。
余談ですが^^;
競走馬の年齢(馬齢)は、生まれたときは「0歳」、以後正月を迎えるたびに「1歳」「2歳」と一つ歳を重ねるんだそうです。
「数え年」に似てますね^^;
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>母親に今年は前厄だよと言われていたのですが、
昭和45年1月●日生まれは前厄になるんですか?
ネットとかで調べると当てはまらないんですけど…
すみませんが、教えて下さい。
お願いします
まず、厄年は数え年で行います。
数え年は、生まれたときが1歳、その後正月を迎えるたびに1つ歳をとると数え
ます。
(誕生日に関係なく、正月に全ての人が一つ年をとります。)
従って、昭和45年生まれの男性は、数え年で今年40歳です。
ですから、今年ではなく、来年が前厄になります。
です。男性の大厄(平成21年)
前厄 数え41歳 昭和44年生まれ
本厄 数え42歳 昭和43年生まれ
後厄 数え43歳 昭和42年生まれ
●●さまのように昭和45年の早生まれの方の場合、同学年お友達で44年生まれの方が多いと思います。
昭和44年生まれの男性は前厄になりますので、紛らわしいですね。
お母様は、その辺りで勘違いされたのかも知れませんね。
厄年は「数え年」で数えます。
そこがポイントです^^;
「数え年」
「厄年」
については、改めて別エントリーを立てたいと思います。
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>「和漢三才図会」もネットで閲覧できますね^^;
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
う~ん。。。
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>(今頃知ったの?とつっこみを入れないで下さいね^^;)
古事類苑ページ検索システム
あの「古事類苑」がネットで閲覧・検索出来るんです!
「古事類苑」ってなに?
という方のために・・・
古事類苑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古事類苑(こじるいえん)は明治時代に編纂された類書(一種の百科事典)で、各項目について明治時代前の諸文献を引用するもの。
概要
1879年(明治12年)文部省により編纂が始められ、東京学士院、皇典講究所、神宮司庁と事業が引き継がれた。完成は1907年(明治40年)で全1000巻。編纂中の1896年(明治29年)から順次刊行が始まり、1914年(大正3年)まで刊行。和装本で350冊、洋装本では51冊になる(60冊版もあり)。
内容は大きく分けて、天部、歳時部、地部、神祇部、帝王部、官位部、封禄部、政治部、法律部、泉貨部、称量部、外交部、兵事部、武技部、方技部、宗教部、文学部、礼式部、楽舞部、人部、姓名部、産業部、服飾部、飲食部、居処部、器用部、遊戯部、動物部、植物部、金石部の30部門からなる。それぞれの項目に簡単な説明を付け、六国史以降、慶応期までの文献から参考になる箇所を引用している。
皇典講究所が編纂を引き受けたのは1890年(明治23年)であり、同時期に國學院(のちに國學院大学)を開設し、授業を始めた。1895年には神宮司庁に引き継がれるが、皇典講究所のメンバーが引き続き編集委員を担当したという。明治期の国学者による一大事業であった。
学生時代には、レポートやらゼミやらで大変お世話になった書物です。
物欲から欲しいなぁ・・・と常々思ってましたが、・・・・
全巻揃えるのも・・・・。
これでわざわざ図書館に行かなくても、調べることが出来ますね^^;
PDFでの保存・印刷も出来ます。
便利な世の中になったものです。
全文テキスト検索のサイトも進行中のようですね。
古事類苑全文データベース
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>今日は牛と梅のお話しです。
久しぶりにスタジオに赴いての放送になりました。
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ここ数日、寒い日が続いていますが・・・・
先週は暖かい日が多かったですね。
その陽気につられてか当宮の梅の花も開花しております。
先日、当宮の梅開花のニュースを取材にマスコミ数社の記者が来宮されました。
その時、天満宮と牛、梅の関係について尋ねられましたので、一般には意外と知られていないのかな・・・?
と思い、今日はその話をさせていただきます。
まず、天神さまですが、菅原道真公(すがわらみちざねこう)略して「菅公」とも称されます。
平安時代の学者であり政治家ですね。
幼少の頃より、文才に優れ、右大臣にまでのぼりつめられます。
しかし、当時は藤原氏の全盛期です。藤原氏にとっては、一門を脅かす邪魔な存在であったことは容易に想像できます。
そして不幸にも藤原時平の陰謀により、太宰府に左遷され、配所で薨去されてしまうのです。
その後、宮中に落雷があったり、天変地異や藤原一門に次々と変死者がでるなど、人々はこれを菅公の祟りだと恐れます。そしてその菅公の祟りを鎮めるために北野天満宮がまつられたのです。
今では、学問の守り神として親しまれ、菅公をまつる天満宮は全国に約2万社もあると言われます。
さて、菅公(天神さま)と牛との縁ですが・・・
○由来譚 その1
菅公は、承和12年(845)乙丑(きのとうし)6月25日(丑の日)丑の刻?生まれです。
菅公は丑年生まれだったため、牛にもともと愛着があったのでしょう。
○由来譚 その2
十五才の元服式の日が貞観元年(859)2月11日の丑の日でした。
その晩、南庭の松の大木が大風に倒れ、下につないでいた白牛が圧死する夢を御覧になったそうです。そしてこのことを気に掛け、その後、自ら白牛を画いて、丑の日を忌日として供養されたと伝わっています。
○由来譚 その3
菅公48歳の寛平5年(893)癸丑(みずのとうし)の9月、北山での茸狩の時、宴席にどこからともなく白い仔牛があらわれ、菅公になついたんだそうです。かつての白牛の夢のこともあったのでしょう。その後菅公はこの白牛を連れて帰り、愛育され、牛車をひかせたといいます。
不思議にもこの白牛は、御者の指図を待つことなく、菅公の心を察知して行先に牛車を引いたそうですよ。
もしかしたら、菅公が元服の時に夢見た白牛の生まれ変わりかも知れませんね。
○由来譚 その4
第六十代醍醐天皇の延喜元年(901)正月24日夜、突然この白牛が菅公の屋敷より姿を消してしまいます。翌25日朝、菅公がこのことを案じて居られるところへ、宮中から勅使が到着して太宰権師左遷の命が伝えられました。
○由来譚 その5
菅公が太宰府に左遷の時、河内国道明寺に住む叔母に別れを告げてから、筑紫(九州)に向かわれました。
途中、「こもやの里」で、時平の命を受けた刺客・笠原宿禰等が、後を追って切りかかったそうです。
その時、間一髪、松原の中から荒れ狂った白牛が飛び出て、角で宿禰の腹を突き刺し菅公は難を逃れたそうです。
よくご覧になると菅公が都でご愛育になった牛でし。
菅公は「都にて流罪 極る前夜、不思議に逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫まで伴わん」と涙を流してお喜びになったそうです。
そしてこの牛にお乗りになって、御心安らかに旅立たれたと伝えられています。
○由来譚 その6
太宰府にて菅公が薨去された日は、延喜3年(903)2月25日。この日も丑の日でした。
菅公の御遺言「御かばねをば人に引かせず、牛の行く所にとどめよ。」により、御棺を例の白牛に引かせて北東(うしとら)の方角に向かいます。牛が坐して動かなくなった所は、丁度菅公が生前に御好みになった場所でした。そこで、ここが菅公の神意ならんとこの地に葬ったそうです。
菅公の祠廟を建てたのは延喜5年(905)乙丑(きのとうし)でした。
これが安楽寺であり、今の大宰府天満宮の地なんです。
こんなことから、天神さまのお使いの動物は「牛」とされ、全国の天満宮には必ずと言っていいほど境内に牛の像があるんです。(銅製のもの、石製ものなどいろいろありますが・・・。)
神牛といったり、撫で牛と言ったりしますね。
岡崎天満宮の黒花崗石の神牛は、岡崎の名工・戸松甚五郎氏製作のものです。
この神牛(撫で牛)を撫でると、身体の悪いところが治るとも、知恵がつくとも言われています。
また、皮膚にできる湿疹などの病気のことを瘡(くさ)といいますが、牛は草を食べることから こどもの瘡(くさ)を食べてくれるとも言われています。
さて、次に菅公(天神さま)と梅との縁についてです。
天神さまの御神紋は「梅鉢」紋であるように、天神さまは梅とも深いゆかりがあります。
○由来譚 その1
菅公の母君が、夢で、庭園の青梅が風に吹かれて、落ちるはずみに飛びはねて、懐に入ったので驚いて、
人ならば浮名や立たん 小夜ふけて わが手枕に通う梅が香
と和歌を詠んで夢から醒められた。
そして菅公のご懐妊を知ったといわれています。
○由来譚 その2
菅公は御生まれになってから二十五日間、口中に一物を含んで出されないので、法性房の僧正を招じて念誦されたところ、口中より一つの梅実を吐き出されました。
これを庭に播かれると、一本の白梅が生えたといいます。
これが後の飛梅とも・・・・。
○由来譚 その3
菅公は生涯にわたって、梅を愛され、多くの詩歌を残されています。
5歳の時、
うつくしや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある
と和歌を詠まれ・・・・。
11歳の時、
月耀如晴雪 梅花似照星 可燐金鏡轉 庭上玉房馨
(月の輝きは晴れたる雪の如し 梅の花は照れる星に似たり 憐れむべし金鏡転じ 庭上に玉房香れるを)
口語訳【晴れ渡った空に月が輝いて、梅が星のように無数に咲き匂っているので、可愛そうに贅を尽くして造られている金殿玉楼が色を失っている。】
と初めての漢詩を詠まれました。
○由来譚 その4
太宰府に左遷の時、自宅の紅梅殿でよまれたのは、次の有名な和歌ですね。
東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな(春な忘れそ)
そしてこの梅の木が、菅公を慕って一夜のうちに太宰府に飛来したと伝えられる
所謂「飛梅伝説」も有名です。
こんなことから、全国の天満宮には、必ずといっていいほど、梅の木が植えてあります。
梅園として整備してあるところも多いですね。
おまけに、天神さまと梅干しの話を・・・
梅の種の中には天神さまが宿るといわれ、故に食べてはいけないという信仰があります。
梅の種の中の核(白い部分)を「天神さま」と呼ぶのです。
科学的には梅の種の中には、微量の青酸が生じることがあるといわれ、これを禁忌としたのかも知れません。
天神さまがいらっしゃる梅の種を粗末に扱えないと、太宰府天満宮には「梅干の種納め所」があります。
以上、天満宮といえば「牛」「梅」の理由がお分かりいただけましたでしょうか?
他にも、地方色豊かな数々の伝説が残っています。
一度、調べてみると面白いかも知れませんね。
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>新成人の皆さんおめでとうございます。
ただ、やっぱり15日じゃないと違和感ありますね。。。
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>ここに、お納めいただければ、お祓いの後、お焚き上げをさせていただくのですが・・・・。
近年、マナーの悪い方が目につくようになってきました。
明らかに家庭ゴミと思われるようなもの(中にはゴミ分別すら出来ていないもの)まで・・・。
まるで、ゴミ箱にゴミを捨てるような感覚ではないかと疑ってしまうほどです。
「納め所」ですから、あくまでも、神さまへの感謝の気持ちをこめて、神札やお守りをお納めする場所です。
初詣の行列の如く^^;
節度あるマナーを期待したいものです。
う~ん。
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>新春企画展:皇室や徳川家奉納の刀剣 来月11日まで、伊勢・神宮徴古館 /三重
◇1300年の歴史感じて
皇室や徳川幕府の将軍たちから伊勢神宮に奉納された刀剣を展示する新春企画展「神宮の刀」が伊勢市神田久志本町の神宮徴古館で開かれている。2月11日まで。
神宮には、皇室や将軍などから、式年遷宮や将軍就任時などに刀剣が奉納されてきた。徳川家からは、計66振りが奉納されている。
1953年の第59回式年遷宮で新調された玉纏御太刀(たままきのおんたち)は約450個のこはくや水晶、五色の吹玉などがちりばめられるなどの装飾が施されている。須賀利御太刀(すがりのおんたち)は、柄にトキの羽根2枚が使われている神宮の御神宝ならではのもので、正殿に収められていた。このほか、明治時代に内宮の御敷地で出土した古神宝5振りは、いずれも国の重要文化財に指定されている。
神宮徴古館の深田一郎学芸員は「1300年にわたる式年遷宮の歴史を感じてほしい」と話している。大人300円、高大生150円、小中学生100円。月曜休館。【渡辺隆文】
〔伊賀版〕
毎日新聞 2009年1月6日 地方版
お伊勢まいりの際に、ちょっと立ち寄ってみるのも良いですね^^;
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>この房の結び方を何というかご存知ですか?
「あげまき結び」といい、「総角結び」とか「揚巻結び」と書きます。
古くから良く用いられた飾り結びの一種で・・・
神前幕をたぐり上げたり、御社殿の御簾(みす)を巻き上げる房の結び方です。
大相撲で「青房下」とか「赤房下」と言いますよね。この四色の房「青・赤・白・黒」の結びも「あげまき結び」です。
先日、参詣者の方で、熱心にこの結びの写真を撮ってみえる方がいらっしゃいました。
何でも結び方に興味があるとのこと。
神社の調度品でよく見る結び方ですが、意外と神主でも結び方は覚えていないものです。
(もしかして私だけ?)
以前、兼務社で神前幕の房の紐が解けてしまい、苦労したことを思い出します。
そこで、備忘録を兼ね、この「あげまき結び」の結び方をご紹介します。
(絵を描くのに難儀しました^^;)
-----------------------------------------------------------------
1.まず、紐の左側で普通に一巻きします。
この時、左端を上から出すのがポイントです^^;
2.上で出来た輪の部分に、上から紐の右端を通します。
3.そして、右側も一巻きします。
すると、紐の右端は下から出ているはずです。
この形がポイントです。
メガネのようですね。この形を覚えておきましょう^^;
4.次に、左右の結び目?の部分の間から指を入れて、AとBの部分を引っ張り出します。
5.こんな感じです。
6.と同時に、下の矢印の部分を少しずつ引っ張って、締めていきます。
7.しっかり締めれば、完成です。
結び目の所に注目してください。
紐の重なりが「入」になっています。「入形」というそうです。
逆に、下のように「人」になっているのは「人形」というそうです。
これは鎧兜の装飾に用いられるそうです。
違いがお分かりいただけるでしょうか?
ちなみに、この「人形」の「あげまき結び」の結び方は、最初の1で左端を下から出せばOKです。
(そうすれば、3のメガネの形の時に、右端は上から出るかたちになりますね。)
おまけに、「総角」といえば、源氏物語の宇治十帖の第三帖が「総角」ですね。この巻名の由来となったのが、薫が詠んだ次の和歌です。
あげまきに 長き契りを むすびこめ おなじところに よりもあはなむ
(あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ)
う~ん。ロマンチックですね^^;
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>雅子さまもご出席 武蔵野陵と皇居で「昭和天皇二十年式年祭」
2009.1.7 11:23
【昭和天皇二十年式年祭の儀・山陵の儀】 昭和天皇陵「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」への拝礼を行われた天皇陛下と皇族方=7日午前、東京都八王子市の武蔵陵墓地【昭和天皇二十年式年祭の儀・山陵の儀】 昭和天皇陵「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」への拝礼を行われた天皇陛下と皇族方=7日午前、東京都八王子市の武蔵陵墓地
昭和天皇の崩御から20年となる7日午前、東京都八王子市にある武蔵野(むさしのの)陵(みささぎ)で「昭和天皇二十年式年祭の儀・山陵の儀」が行われ、天皇、皇后両陛下と皇族方が拝礼された。
元皇族や麻生太郎首相、河野洋平衆院議長ら約80人も参列。モーニングにコート姿の天皇陛下は陵前で拝礼後、「どうぞ、国家、国民をお守りくださり、さらに繁栄させていただきますよう、お願い申し上げます」という内容の「御告文(おつげぶみ)」を読まれた。
一方、皇室の祖先を祭る皇居・宮中三殿の皇霊殿では「昭和天皇二十年式年祭の儀・皇霊殿の儀」が行われ、両陛下の名代として皇太子ご夫妻が拝礼された。 病気療養中の皇太子妃雅子さまが、心身を清める潔斎を経て、皇室の伝統的な装束に着替えて臨む宮中三殿での儀式に出席されたのは、平成15年9月に行われた「秋季皇霊祭の儀」と「秋季神殿祭の儀」以来。
式年祭は天皇の崩御後、3年、5年、10年など節目の年に行われる。
(msn産経ニュース)
20年前、昭和天皇崩御の悲しい知らせを聞いたのは学生時代。
弟の下宿先の金沢だったのを思い出します。
つつしんで、昭和天皇の御威徳を偲び、皇室の弥栄をお祈り申し上げます。
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>新年最初の放送です。
忙しくネタを仕込む間がなかったので(言い訳ですが^^;)
「新春雑感」として、この正月に思ったことをお話しさせていただきました。
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平成21年己丑(つちのとうし)の新春を迎え、皆様それぞれに輝かしい新年をお迎えのことと存じます。
当神社(岡崎天満宮)も、今年のお正月は、天候に恵まれ、多くの方におまいりいただきました。
特に天神さまに所縁の深い「丑年」ということもあり、例年以上の賑わいだったように思います。
さて、今年の干支は「己丑」です。
前回の「己丑」歳は昭和24年でした。(この年生まれの方が今年還暦ですね^^;)
この昭和24年は、実はお伊勢さんに所縁のある年なんです。
というのは、第59回神宮式年遷宮が行われるはずだった年なんですね。
ご存知の通り、神宮式年遷宮は伊勢神宮で20年に一度、御社殿を建て替え、神さまにお遷りいただくおまつりですが、御準備の途中で終戦を迎えたために、この昭和24年に行うはずだった御遷宮が延期になっていたのです。(実際には4年後の昭和28年に齋行されました。)
で、せめて宇治橋だけでもということで、昭和24年には宇治橋が架け替えられたのです。
それから20年後(昭和48年)、20年後(平成元年)、そして20年後の今年平成21年、伊勢神宮では宇治橋の架け替えが行われます。
今度の御遷宮は4年後の平成25年ですね。
御遷宮と宇治橋の架け替えが4年ずれている訳がお分かりになりましたでしょうか?
(もっとも、大昔は宇治橋は20年ごとではなく、老朽化の都度、架け替えられていたようですが・・・。)
また「己丑」歳は伊勢神宮の創祀にもかかわりがあります。
伊勢神宮(内宮)の御神体は、三種の神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)です。
御神勅(神鏡奉齋の神勅)により、歴代の天皇陛下はこの御神鏡を宮中でおまつりされていました。(これを同床共殿といいます。)
それが、崇神天皇の御代になって、疫病が流行ったり、天変地異が続いたことがありました。これは、天照大神と床を同じくしていることがいけないのではないかということになり、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)というところにおまつりします。
天照大御神が始めて宮中の外にまつられたのが、崇神天皇の6年(紀元前92年)で、この年の干支が「己丑」なんです。
その後、天照大御神のお鎮まりになる土地を求めて、諸国を巡行になり、次の垂仁天皇の御代に今の伊勢の五十鈴の川上に御鎮座になります。
「己丑」から伊勢神宮の話になったところで、天照大御神の有名な神話「天の岩屋戸」の話をしましょう。
ご存知の方もみえると思いますが、・・・
遠い神代の昔、スサノオノミコトの狼藉により、怒った天照大御神は天の岩屋戸にお隠れになってしまいます。
日の大神の天照大御神がお隠れになったため、高天原は闇の世界になってしまいました。
疫病が流行ったり、もののけがうごめいたり、正に百鬼夜行の世界です。
困った高天原の神々は天の安河に集い、知恵を絞ります。
・・・・
とても頭の良い神さま・思兼神(オモイカネノカミ)が一計を講じます。
鏡や玉やおまつりに必要なものを揃えさせ、 天児屋命(アメノコヤネノミコト)や太玉命(フトダマノミコト)が祝詞をあげおまつりをします。そして、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が舞を舞い、祭りは最高潮に達します。
「私が隠れて皆悲しんでいると思うのに、外の笑い声や賑やかなのはどうしてだろう・・・」
天の岩屋戸にお隠れになっている天照大御神は外の様子が気になり出します。
そして、そっと外を覗いてみようと、身を乗り出した瞬間、力の強い手力雄命(タヂカラオノミコト)が天照大御神を岩屋戸の中から引っ張り出します。
すると光が戻り、高天原に平安が訪れました。
・・・という神話です
ここで、最近の社会情勢をみてみますと・・・。
政治は混乱し 麻生政権の行き詰まり感も漂っていますね。
経済も例のリーマンショックなどで、崩壊し100年に一度の不況の声もささやかれています。
社会不安も増大し、雇用問題もしかり、頻発する凶悪犯罪や詐欺行為の蔓延など・・・
本当に暗い話題が多いのも否めない事実です。
もしかしたら、天照大御神さまが岩屋戸に再びお隠れになってしまったのではないかと思えるほどです。
ならば、現状打破の為に「天の岩屋戸」の神話に学ぶことが必要なんじゃないかという気がします。
直面する困難を打開する為には、
天の安河で神々が相談したように、まず話し合うこと。知恵を絞ること。が必要です。
そして天鈿女命や手力雄命がその卓越した能力を発揮して活躍したように、個々の能力を活かすことが必要です。
また何より個々の能力を結集することが肝要であると思います。
いかがでしょうか?
それぞれの会社、それぞれの家庭で、今年一年死にものぐるいで頑張らなければ!と気合いを入れておられる方も多いことと存じます。
私の拙いお話しが参考になれば幸いです^^;
今年は丑年です。
丑年の「牛」にちなみ・・・
一発逆転を狙うのではなく、着実に一歩一歩進むことが重要ですね。また困難な時ほど、真価が問われます。
私自身今年もこつこつと精進していきたいと思います。
また、今年は今上陛下御即位20年のお祝いの年でもありますし、4月には両陛下がご結婚50年の金婚式を迎えられます。これをきっかけに少しでも明るい話題が増えることを期待したいですね。
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特に宣伝しているわけではないのですが・・・
最近、「ラジオ聞いたよ」と声をかけてくれる方が増えました。
嬉しいやら、恥ずかしいやら・・・。
名前:一文字


「やくどし(厄年)」の略。
九・六十一・七十三・八十五・九十七 謂之厄年」
当
太一定分厄
給、可
誉依勘申也」
陰陽道で、厄難にあうから諸事に慎み深くふるまわなければならないとする年齢。厄払いをする習慣がある。普通、男は二五歳と四二歳、女は一九歳と三三歳。特に男の四二歳と女の三三歳を大厄、その前後の年を前厄・後厄という。厄まわり。やくねん。やく。
から転じて)災難の多い年。ついていない年。