黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉れ。
元を元とし、本を本とする故なり。
当ブログ管理人の一文字です。
愛知県岡崎市の田舎神主。
融通の利かない頑固者です。
神社のこと、神道のこと、
世の中のこと、日々の出来事、
家族のこと、などなど。
私、一文字が、
気分次第で記していきます。
尚、FirefoxとInternetExplorerの最新版で表示確認を行っています。(旧版で表示が乱れていたらゴメンナサイ。)またjavascriptを有効にしてご覧下さいませ。
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- ■あげまき結びの結び方
⇒08/12 by masaさん
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毎度コメントありがとうございます。
古い記事へのコメントも大歓迎です^^;
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いつも御交誼ありがとうございます。

「心の宅急便」
毎週火曜日、お昼の12時45分から出演しています^^;
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- 2009年02月の記事
目次
02月28日:2月も終わりですね 【つれづれ】
02月25日:ようこそお参り下さいました。 【[岡崎天満宮]梅花】
02月24日:竹島の話 【心の宅急便】
02月23日:ヤフオク 【つれづれ】
02月23日:梅まつり 【[岡崎天満宮]梅花】
02月21日:携帯 【つれづれ】
02月18日:熱田神宮 【[兼務社・その他]愛知県の神社】
02月17日:祈年祭の話 【心の宅急便】
02月15日:今が見頃です。 【[岡崎天満宮]梅花】
02月14日:馥郁たる香り 【[岡崎天満宮]梅花】
02月14日:岡崎ホームニュースに掲載されました 【[岡崎天満宮]梅花】
02月13日:松山城 【[旅先から]神社参拝など】
02月12日:子規堂 【[旅先から]神社参拝など】
02月12日:松山 【[旅先から]神社参拝など】
02月12日:私たちの 領土:いえ は 私たちで守ろう 【お知らせ】
02月11日:厄年の由来 その6 【[神社神道の豆知識]人生儀礼】
02月10日:エコアクションポイント 【つれづれ】
02月10日:紀元節(建国記念の日)の話 【心の宅急便】
02月09日:厄年の由来 その5 【[神社神道の豆知識]人生儀礼】
02月08日:梅が見頃を迎えました。 【[岡崎天満宮]梅花】
02月07日:北方領土の日 【[気になるニュース]国のこと】
02月06日:初午 【[岡崎天満宮]社務所から】
02月04日:111111人目のご訪問 【[PC・ネット備忘録]更新履歴】
02月03日:節分祭 【[岡崎天満宮]お祭り】
02月02日:梅まつりの日程について 【お知らせ】
02月25日:ようこそお参り下さいました。 【[岡崎天満宮]梅花】
02月24日:竹島の話 【心の宅急便】
02月23日:ヤフオク 【つれづれ】
02月23日:梅まつり 【[岡崎天満宮]梅花】
02月21日:携帯 【つれづれ】
02月18日:熱田神宮 【[兼務社・その他]愛知県の神社】
02月17日:祈年祭の話 【心の宅急便】
02月15日:今が見頃です。 【[岡崎天満宮]梅花】
02月14日:馥郁たる香り 【[岡崎天満宮]梅花】
02月14日:岡崎ホームニュースに掲載されました 【[岡崎天満宮]梅花】
02月13日:松山城 【[旅先から]神社参拝など】
02月12日:子規堂 【[旅先から]神社参拝など】
02月12日:松山 【[旅先から]神社参拝など】
02月12日:私たちの 領土:いえ は 私たちで守ろう 【お知らせ】
02月11日:厄年の由来 その6 【[神社神道の豆知識]人生儀礼】
02月10日:エコアクションポイント 【つれづれ】
02月10日:紀元節(建国記念の日)の話 【心の宅急便】
02月09日:厄年の由来 その5 【[神社神道の豆知識]人生儀礼】
02月08日:梅が見頃を迎えました。 【[岡崎天満宮]梅花】
02月07日:北方領土の日 【[気になるニュース]国のこと】
02月06日:初午 【[岡崎天満宮]社務所から】
02月04日:111111人目のご訪問 【[PC・ネット備忘録]更新履歴】
02月03日:節分祭 【[岡崎天満宮]お祭り】
02月02日:梅まつりの日程について 【お知らせ】
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昨日まで、SSKの会議で上京しておりました。
昨日の東京は雪の降る寒~い一日でした。
気付けば2月も終わり。
早いですね。
時の経つのが早いということは、日々充実しているということなんでしょうが、・・・。
為すべき仕事がどんどん溜まっていき、
同時にストレスも・・・^^;
最近、体中が痒いのもそのせいかな?
昨日の東京は雪の降る寒~い一日でした。
気付けば2月も終わり。
早いですね。
時の経つのが早いということは、日々充実しているということなんでしょうが、・・・。
為すべき仕事がどんどん溜まっていき、
同時にストレスも・・・^^;
最近、体中が痒いのもそのせいかな?
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当宮の梅も徐々に散り始めています。
少々名残惜しいですが・・・^^;
もっとも、遅咲きの梅はまだまだこれから楽しめます!
さて、ネットでブログを調べていると、沢山の方が当宮にお越し下さっていることが分かります。
そして、各々撮影された梅の写真を公開なさってます。
皆さん本当にお上手ですね^^;
いくつかご紹介しますね。
ざとうくじらさんの「カメラ持って行こう」
boppoさんの「もうやあこブログ」
triplesix6さんの「原動機で伝えたい記(嬉写)」
sachiさんの「お婆ちゃんの挑戦」
yuria2007さんの「ちゃらんぽらんな迷宮」
構図とかいろいろ参考になります。
ご参詣賜り、厚く御礼申し上げます。
少々名残惜しいですが・・・^^;
もっとも、遅咲きの梅はまだまだこれから楽しめます!
さて、ネットでブログを調べていると、沢山の方が当宮にお越し下さっていることが分かります。
そして、各々撮影された梅の写真を公開なさってます。
皆さん本当にお上手ですね^^;
いくつかご紹介しますね。
ざとうくじらさんの「カメラ持って行こう」
boppoさんの「もうやあこブログ」
triplesix6さんの「原動機で伝えたい記(嬉写)」
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yuria2007さんの「ちゃらんぽらんな迷宮」
構図とかいろいろ参考になります。
ご参詣賜り、厚く御礼申し上げます。
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FMおかざき「心の宅急便」の20回目。
今日は「竹島」のお話しです。
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2月22日は「竹島の日」でした。
これは、明治38年の島根県告示第40号をもって、竹島が島根県に編入された2月22日を記念する日で、竹島編入100周年を記念して、平成17年に「竹島の日」の制定に関する条例が島根県議会で3月16日に可決、制定されたものです。
以後毎年この日に松江市で「記念式典」が開催されています。
今年も松江市で記念式典が開かれ、520人が参列されたそうです。
(昨年私も縁あって参列させていただいたことを思い出します。)
しかし、県が毎年求めている政府関係者の出席は今年もゼロだったそうです。
(少し寂しい感じがしますね。)
また、少しさかのぼりますが、2月7日は「北方領土の日」でした。
北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るために制定された記念日です。これは、安政元年に日本とロシアとの間で最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた2月7日に由来し、昭和56年1月6日に毎年2月7日を「北方領土の日」とすることが閣議決定されています。
「北方領土の日」に「竹島の日」。まさに2月は、領土について真剣に考える月ですね。
今日は中でも特に、あまり知られていない「竹島の話」をします。
竹島は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島根県の島で、隠岐と鬱陵島の中間に位置します。
東島(女島)、西島(男島)と呼ばれるふたつの小島とその周辺の総計37の岩礁からなり、総面積は約0.23平方キロメートルで、東京の日比谷公園の1.4倍程度の島だそうです。
この小さな島が日本と韓国の間で領土問題となっていることをご存知でしょうか?
知っていても、大した問題じゃないだろうと無関心の方も多いかも知れません。
かつて、「小さな島なので、爆破してしまえ」との妄言を言った政治家もいたくらいです。
でもちょっと待ってください。
小さな島だからという問題ではないんです。
排他的経済水域(海底・水産資源)の観点から行けば、膨大な海洋面積の問題になります。
そこで、竹島の歴史を振り返りながら、日本の主張の正当性を再確認してみましょう。
下記に分かりやすく纏められています。
他にもネットで調べてみると様々な情報がありますので、興味のある方は一度調べてみてくださいね。
●参考
外務省ホームページ
Web竹島問題研究所
日本JC国防問題検証委員会ホームページ
この問題を解決するには、何より世論の盛り上がりが必要だと思います。
一人一人が正しくこの問題を理解し、政府の重い腰を動かしていかなければなりません。
幸い日本JCもこの問題に対応して運動を起こしました。
独立国家の最低条件は、領土と国民と主権です。
そしてこれを守るのが政治です。
領土を蝕まれ、主権を侵されている我が国に果たして未来はあるのでしょうか?
一度真剣に考えてみませんか?
----------------------------------------------------------
今日の放送は、ヘビーな内容で、時間も少なく、一方的な説明に終始してしまいました。
少し反省しております。
来週はもう少し軟らかい話をしますね^^;
今日は「竹島」のお話しです。
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2月22日は「竹島の日」でした。
これは、明治38年の島根県告示第40号をもって、竹島が島根県に編入された2月22日を記念する日で、竹島編入100周年を記念して、平成17年に「竹島の日」の制定に関する条例が島根県議会で3月16日に可決、制定されたものです。
以後毎年この日に松江市で「記念式典」が開催されています。
今年も松江市で記念式典が開かれ、520人が参列されたそうです。
(昨年私も縁あって参列させていただいたことを思い出します。)
しかし、県が毎年求めている政府関係者の出席は今年もゼロだったそうです。
(少し寂しい感じがしますね。)
また、少しさかのぼりますが、2月7日は「北方領土の日」でした。
北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るために制定された記念日です。これは、安政元年に日本とロシアとの間で最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた2月7日に由来し、昭和56年1月6日に毎年2月7日を「北方領土の日」とすることが閣議決定されています。
「北方領土の日」に「竹島の日」。まさに2月は、領土について真剣に考える月ですね。
今日は中でも特に、あまり知られていない「竹島の話」をします。
竹島は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島根県の島で、隠岐と鬱陵島の中間に位置します。
東島(女島)、西島(男島)と呼ばれるふたつの小島とその周辺の総計37の岩礁からなり、総面積は約0.23平方キロメートルで、東京の日比谷公園の1.4倍程度の島だそうです。
この小さな島が日本と韓国の間で領土問題となっていることをご存知でしょうか?
知っていても、大した問題じゃないだろうと無関心の方も多いかも知れません。
かつて、「小さな島なので、爆破してしまえ」との妄言を言った政治家もいたくらいです。
でもちょっと待ってください。
小さな島だからという問題ではないんです。
排他的経済水域(海底・水産資源)の観点から行けば、膨大な海洋面積の問題になります。
そこで、竹島の歴史を振り返りながら、日本の主張の正当性を再確認してみましょう。
下記に分かりやすく纏められています。
ざっと、読んだだけでも日本の領土を韓国が不法占拠している現状を理解できると思います。外務省ホームページより
1.竹島の認知 → 詳細へ
現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれていました。そして竹島の西北西約92キロメートル先にある鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「松島」と「竹島」の存在を古くから認知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水(ながくぼせきすい)の「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)ほか、竹島と鬱陵島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。これに対し、韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。
2.竹島の領有 → 詳細へ
我が国は、江戸時代初めの17世紀初頭、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛が、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けて以降、両家は交替で毎年1回鬱陵島へ渡航し、あわびの採取やあしかの捕獲、そして竹などの樹木の伐採等に従事しました。この際、竹島は、鬱陵島に渡る船がかり及び魚採地として利用されており、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していました。
3.鬱陵島への渡海禁止 → 詳細へ
大谷・村川両家による鬱陵島での事業は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権をめぐる交渉が開始されましたが、最終的に幕府は1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました。(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。このことからも、当時から我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
4.竹島の島根県編入 → 詳細へ
今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかの捕獲は過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。これを受けた政府は、島根県の意見を聴取しつつ、1905(明治38)年の閣議決定をもって竹島を島根県に編入し、竹島を領有する意思を再確認しました。
(注)「りやんこ島」は、竹島の洋名「リアンクール島」の俗称。当時、ヨーロッパの探検家の測量の誤りなどにより、鬱陵島が従来の「竹島」に加え「松島」とも呼ばれるようになり、現在の竹島は 従来の「松島」とともに「りやんこ島」と呼ばれるようになっていました。
5.第二次大戦直後の竹島 → 詳細へ
我が国が占領下にあった1946(昭和21)年、連合国総司令部より発せられた連合国総司令部覚書(SCAPIN)第677号により、竹島は、日本が政治上又は行政上の権力を停止すべき特定地域の一つとされ、また、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第1033号により、竹島は、日本漁船の操業区域外の地域として指定されました。しかし、これら連合国総司令部覚書の文中には、いずれも領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならないことが明記されています。また、我が国の領土を確立したサンフランシスコ平和条約が発効する以前の竹島の扱いにより、竹島の帰属の問題が影響を受けるということはないのは明らかです。
6.サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い → 詳細へ
1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の一つに竹島を加えるよう要望しました。これに対し米国は、かつて竹島は朝鮮の領土として扱われたことはなく、また朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない旨回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。このやりとりを踏まえれば、竹島は日本の領土であるということが肯定されていることは明らかです。
7.米軍の爆撃訓練区域としての竹島 → 詳細へ
米軍は、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第2160号をもって1950(昭和25)年7月以来竹島を海上爆撃訓練区域として使用していましたが、1952(昭和27)年7月、米軍が引き続きその使用を希望したのを受け、日米行政協定に基づき同協定の実施に関する日米間の協議機関として設立された合同委員会は、竹島を米軍の爆撃訓練区域に指定しました。同協定では、合同委員会は「日本国内の施設又は区域を決定する協議機関」としての任務を行うとされていますが、竹島が合同委員会で協議され、かつ在日米軍の使用する区域としての決定を受けたということは、とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。
8.「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠 → 詳細へ
1952(昭和27)年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定して、そのライン内に竹島を取り込みました。1953(昭和28)年7月には海上保安庁の巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲から銃撃を受ける事件も発生、1954年(昭和29)6月、韓国内務部は、韓国沿岸警備隊が駐留部隊を竹島に派遣した旨の発表を行いました。これ以降、韓国は、引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。
韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このような行為は、竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認できるものではなく、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行うごとに厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。
9.国際司法裁判所への提訴の提案 → 詳細へ
我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案しましたが、同年10月、韓国はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。
他にもネットで調べてみると様々な情報がありますので、興味のある方は一度調べてみてくださいね。
●参考
外務省ホームページ
Web竹島問題研究所
日本JC国防問題検証委員会ホームページ
この問題を解決するには、何より世論の盛り上がりが必要だと思います。
一人一人が正しくこの問題を理解し、政府の重い腰を動かしていかなければなりません。
幸い日本JCもこの問題に対応して運動を起こしました。
独立国家の最低条件は、領土と国民と主権です。
そしてこれを守るのが政治です。
領土を蝕まれ、主権を侵されている我が国に果たして未来はあるのでしょうか?
一度真剣に考えてみませんか?
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今日の放送は、ヘビーな内容で、時間も少なく、一方的な説明に終始してしまいました。
少し反省しております。
来週はもう少し軟らかい話をしますね^^;
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たまたまヤフオクで当宮の鷽が出品されているのを発見しました・・・。
(もう既に終了していますが・・・)
http://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k111344591
う~ん。
30年以上前のものですね。
それにしても郷土玩具とは・・・。
しかも6,450円!!
30年分の災い事の詰まった鷽をお求めになる方とは・・・・・。
この御仁、現在も山田天満宮の鷽を出品されていますね・・・・。
http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d92392017
う~~ん。
(もう既に終了していますが・・・)
http://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k111344591
う~ん。
30年以上前のものですね。
それにしても郷土玩具とは・・・。
しかも6,450円!!
30年分の災い事の詰まった鷽をお求めになる方とは・・・・・。
この御仁、現在も山田天満宮の鷽を出品されていますね・・・・。
http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d92392017
う~~ん。
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携帯電話が修理から帰ってきました。
実は、今の携帯は非常に曲者です^^;
昨年末に、急に受話音量が極端に小さくなり、ボタンの引っかかりも出てきて、慌てて修理。
スピーカー並びに基板もごっそり取り替え。
修理後は快適に使用していましたが、・・・
節分過ぎに今度はメール閲覧中に、いきなり電源が落ちて、自動的に再起動。
更に、「Now loading」の文字が出たまま、暫くすると電源が落ちて、再起動の繰り返し(T_T)
電池パックを外して強制終了しても、改善されず、やむなくドック入りとなりました。
今回も基板を交換とのこと。
前回は、電源は入りましたので、データ等は待避させておくことが出来ましたが・・・・。
今回は起動しないわけですからどうしようもなく・・・。
中のデータは全て消去されました(T_T)
アドレス帳だけはバックアップがあって良かったものの。
おさいふ携帯のデータ移行、お気に入りの再登録、各種設定が非常にめんどくさい。
何とか元の状態に復旧できましたのでやれやれですが・・・
原因が不明なだけに、再発が心配です。。。
実は、今の携帯は非常に曲者です^^;
昨年末に、急に受話音量が極端に小さくなり、ボタンの引っかかりも出てきて、慌てて修理。
スピーカー並びに基板もごっそり取り替え。
修理後は快適に使用していましたが、・・・
節分過ぎに今度はメール閲覧中に、いきなり電源が落ちて、自動的に再起動。
更に、「Now loading」の文字が出たまま、暫くすると電源が落ちて、再起動の繰り返し(T_T)
電池パックを外して強制終了しても、改善されず、やむなくドック入りとなりました。
今回も基板を交換とのこと。
前回は、電源は入りましたので、データ等は待避させておくことが出来ましたが・・・・。
今回は起動しないわけですからどうしようもなく・・・。
中のデータは全て消去されました(T_T)
アドレス帳だけはバックアップがあって良かったものの。
おさいふ携帯のデータ移行、お気に入りの再登録、各種設定が非常にめんどくさい。
何とか元の状態に復旧できましたのでやれやれですが・・・
原因が不明なだけに、再発が心配です。。。
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[兼務社・その他]愛知県の神社
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FMおかざき「心の宅急便」の19回目。
「祈年祭」のお話しです。
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今日、2月17日、宮中や伊勢神宮では「きねんさい」が執り行われています。
「きねんさい」といっても「○○記念」の「記念祭」ではなく、「祈年祭」です。
「祈年祭」は古くからの行われているとても重要なお祭りです。
「祈」は文字通り「祈る」こと。
「年」は、「とし」で「稔り」に通じます。辞書には「(上代の農事に由来する語で、穀物が一回実る期間が一年に相当するところから)五穀、特に稲。また、その耕作、収穫、作柄など。」とあります。
「としごいのまつり」ともいいます。
つまり、一言で言えば「豊作(五穀豊穣)を祈るお祭り」ということですね。
もちろん、五穀豊穣だけでなく、諸産業の発展や、天下太平、国家安泰も祈願するお祭りです。
以前、収穫を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」のお話しをしましたが、この「新嘗祭」と対になるお祭が「祈年祭」なんです。
春先に農作業を始める前に、先ず神さまにお祈りするわけですね。

(c) takeshi1968|写真素材 PIXTA
「祈年祭」は、明治の改暦前は旧暦2月4日に行われていたようです。それが改暦後2月17日に行われるようになったと聞いています。
ただ、全国の神社で統一されているわけではなく、3月から4月にかけて、春祭りと併せて行う神社も沢山あります。先ずは今日2月17日に宮中及び伊勢神宮と全国の主要な神社で行われ、その後順次行われるということですね。
さて、この「祈年祭」の歴史をちょっと振り返りましょう。
律令体制時代、「祈年祭」は国家の祭祀として盛大に執り行われていました。
この時代の法律である「延喜式」には、この祈年祭に関する規程があります。
当日の式次第はもとより、朝廷からどの神社にどれくらい幣帛(へいはく)をお供えするかも規定されています。
それによれば、「延喜式神名帳」に所載の2861社(3132座)すべてに幣帛がたてまつられていたことがわかります。
幣帛(へいはく)というのは・・・
「みてぐら」とも。神さまへのお供え物の総称で。布帛や御幣などもさします。
「延喜式」では「祈年祭」の「幣帛」として、絹、麻、木綿などの布帛のほか、弓、盾、酒、干し肉、海藻など様々な品目が定められています。
如何に重要なお祭りとして認識されていたが分かりますよね。
この頃は、朝廷(天皇)が全国の神さまに豊作をお願いするという形で行われていたのです。
しかし、平安時代から、律令体制の衰退とともにだんだんと規模が縮小してきます。
幣帛のたてまつられる神社が減少していくわけです。
しばらく所謂「明神22社」のような大きなお社に幣帛がたてまつられましたが、やがて、祈願の対象が天照大御神のみになってきます。
鎌倉時代初頭の順徳天皇の「禁秘抄」には、「祈年祭は伊勢の神宮関係の祭祀」と明記されているそうです。
この時には、朝廷(天皇)が全国の神さまではなく、天照大御神にお願いする形に変わってきたのです。
さらに室町時代後半~戦国時代にかけて、度重なる戦乱により、宮中の祈年祭も廃絶してしまいます。
やむを得ず、神祇官の長官を世襲してきた白川家で細々と継承されたと聞いています。
この時代には最早国家の祭祀として、「祈年祭」が公に行われない時代に入ったといってもいいでしょう。
これが復活するのが明治維新以降です。
明治に入り、神祇官の復興とともに祈年祭も国家の祭祀として復活します。
明治2年から、宮中及び全国の官国幣社において「大祭」として執り行われるようになったようです。
以後、それ以外の民社でも行われるようになりました。
天皇が全国の神さまにお願いするという形が復活したわけですね。
しかし終戦後、所謂神道指令によって国家の祭祀という性格が消えてしまいます。
ただ、宮中では皇室祭祀の一環として行われ、伊勢の神宮を始め由緒ある大社・古社などでは、
今も古儀を維持し、毎年2月17日に祈年祭を斎行しています。そして地方の小社などでは、春祭りと兼ねて3月から4月にかけて齋行しているわけです。
国家の祭祀という形ではありませんが、宮中や伊勢神宮では天皇が天照大御神に祈る形。さらには、全国の神社では、全国の国民がそれぞれの神さまにお願いする形で「祈年祭」が行われているわけです。
----------------------------------------------------------
いつもながら時間配分が悪く^^;
放送ではココぐらいまでしか、お話しできませんでした。
せっかくですので、
お話ししようと思っていた内容を以下に記します。
---------------------
国を挙げて、五穀豊穣を祈るということが、なぜ重要なんでしょう?
五穀とくにお米は、日本人の主食です。であるが故に、豊作がもっとも必要なことなんです。
経済もお米が中心でした。
想像してみましょう^^;
不作となると → 不景気 → 飢饉 → 疫病の発生 → 治安の悪化 → 戦乱の勃発 → 田畑が荒れる → 不作 → ・・・
という悪循環が起こります。
古代に於いて、五穀豊穣こそが天下泰平の絶対条件だったんです。
政治にとって、五穀豊穣がもっとも重要なことがわかりますよね。
不作になる原因は、天候不順、天変地異などが殆どでしょう。
自然に対し、人智を越えた存在の神さまにお祈りするのは至極当然のことだったはずです。
社会が複雑化し、貨幣経済が発達してくると、だんだんお米の有り難さが忘れられてきます。
現在の農業政策をみればそれは明らかなことですね。
一度、古代の人の豊作を祈る敬虔な気持ちを、現代に生きる我々も思い出す必要があるのではないでしょうか?
折しも100年に一度とかいう世界同時不況の真っ只中です。
環境問題も、食糧問題も深刻です。
自然災害も後を絶ちません。
最悪のシナリオがふと頭をよぎりますが・・・・
そうならないためにも、今一度敬虔な祈りが必要なのではと思います。
特に為政者に・・・。
「祈年祭」のお話しです。
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今日、2月17日、宮中や伊勢神宮では「きねんさい」が執り行われています。
「きねんさい」といっても「○○記念」の「記念祭」ではなく、「祈年祭」です。
「祈年祭」は古くからの行われているとても重要なお祭りです。
「祈」は文字通り「祈る」こと。
「年」は、「とし」で「稔り」に通じます。辞書には「(上代の農事に由来する語で、穀物が一回実る期間が一年に相当するところから)五穀、特に稲。また、その耕作、収穫、作柄など。」とあります。
「としごいのまつり」ともいいます。
つまり、一言で言えば「豊作(五穀豊穣)を祈るお祭り」ということですね。
もちろん、五穀豊穣だけでなく、諸産業の発展や、天下太平、国家安泰も祈願するお祭りです。
以前、収穫を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」のお話しをしましたが、この「新嘗祭」と対になるお祭が「祈年祭」なんです。
春先に農作業を始める前に、先ず神さまにお祈りするわけですね。

(c) takeshi1968|写真素材 PIXTA
「祈年祭」は、明治の改暦前は旧暦2月4日に行われていたようです。それが改暦後2月17日に行われるようになったと聞いています。
ただ、全国の神社で統一されているわけではなく、3月から4月にかけて、春祭りと併せて行う神社も沢山あります。先ずは今日2月17日に宮中及び伊勢神宮と全国の主要な神社で行われ、その後順次行われるということですね。
さて、この「祈年祭」の歴史をちょっと振り返りましょう。
律令体制時代、「祈年祭」は国家の祭祀として盛大に執り行われていました。
この時代の法律である「延喜式」には、この祈年祭に関する規程があります。
当日の式次第はもとより、朝廷からどの神社にどれくらい幣帛(へいはく)をお供えするかも規定されています。
それによれば、「延喜式神名帳」に所載の2861社(3132座)すべてに幣帛がたてまつられていたことがわかります。
幣帛(へいはく)というのは・・・
「みてぐら」とも。神さまへのお供え物の総称で。布帛や御幣などもさします。
「延喜式」では「祈年祭」の「幣帛」として、絹、麻、木綿などの布帛のほか、弓、盾、酒、干し肉、海藻など様々な品目が定められています。
如何に重要なお祭りとして認識されていたが分かりますよね。
この頃は、朝廷(天皇)が全国の神さまに豊作をお願いするという形で行われていたのです。
しかし、平安時代から、律令体制の衰退とともにだんだんと規模が縮小してきます。
幣帛のたてまつられる神社が減少していくわけです。
しばらく所謂「明神22社」のような大きなお社に幣帛がたてまつられましたが、やがて、祈願の対象が天照大御神のみになってきます。
鎌倉時代初頭の順徳天皇の「禁秘抄」には、「祈年祭は伊勢の神宮関係の祭祀」と明記されているそうです。
この時には、朝廷(天皇)が全国の神さまではなく、天照大御神にお願いする形に変わってきたのです。
さらに室町時代後半~戦国時代にかけて、度重なる戦乱により、宮中の祈年祭も廃絶してしまいます。
やむを得ず、神祇官の長官を世襲してきた白川家で細々と継承されたと聞いています。
この時代には最早国家の祭祀として、「祈年祭」が公に行われない時代に入ったといってもいいでしょう。
これが復活するのが明治維新以降です。
明治に入り、神祇官の復興とともに祈年祭も国家の祭祀として復活します。
明治2年から、宮中及び全国の官国幣社において「大祭」として執り行われるようになったようです。
以後、それ以外の民社でも行われるようになりました。
天皇が全国の神さまにお願いするという形が復活したわけですね。
しかし終戦後、所謂神道指令によって国家の祭祀という性格が消えてしまいます。
ただ、宮中では皇室祭祀の一環として行われ、伊勢の神宮を始め由緒ある大社・古社などでは、
今も古儀を維持し、毎年2月17日に祈年祭を斎行しています。そして地方の小社などでは、春祭りと兼ねて3月から4月にかけて齋行しているわけです。
国家の祭祀という形ではありませんが、宮中や伊勢神宮では天皇が天照大御神に祈る形。さらには、全国の神社では、全国の国民がそれぞれの神さまにお願いする形で「祈年祭」が行われているわけです。
----------------------------------------------------------
いつもながら時間配分が悪く^^;
放送ではココぐらいまでしか、お話しできませんでした。
せっかくですので、
お話ししようと思っていた内容を以下に記します。
---------------------
国を挙げて、五穀豊穣を祈るということが、なぜ重要なんでしょう?
五穀とくにお米は、日本人の主食です。であるが故に、豊作がもっとも必要なことなんです。
経済もお米が中心でした。
想像してみましょう^^;
不作となると → 不景気 → 飢饉 → 疫病の発生 → 治安の悪化 → 戦乱の勃発 → 田畑が荒れる → 不作 → ・・・
という悪循環が起こります。
古代に於いて、五穀豊穣こそが天下泰平の絶対条件だったんです。
政治にとって、五穀豊穣がもっとも重要なことがわかりますよね。
不作になる原因は、天候不順、天変地異などが殆どでしょう。
自然に対し、人智を越えた存在の神さまにお祈りするのは至極当然のことだったはずです。
社会が複雑化し、貨幣経済が発達してくると、だんだんお米の有り難さが忘れられてきます。
現在の農業政策をみればそれは明らかなことですね。
一度、古代の人の豊作を祈る敬虔な気持ちを、現代に生きる我々も思い出す必要があるのではないでしょうか?
折しも100年に一度とかいう世界同時不況の真っ只中です。
環境問題も、食糧問題も深刻です。
自然災害も後を絶ちません。
最悪のシナリオがふと頭をよぎりますが・・・・
そうならないためにも、今一度敬虔な祈りが必要なのではと思います。
特に為政者に・・・。
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参詣者の方から・・・・
「馥郁たる香りってどういう意味?」と質問を受けました。
前エントリーで紹介した記事の中に書かれています^^;

梅の香りですから、臭いにおいではなく、芳しい香りであることは想像できますよね^^;
正確性を期すため、辞書で調べてみましょう。
「馥郁(ふくいく)たる」というのは、形容動詞で、
手元の漢和辞典を見てみると、
「馥」は「かぐわしいさま」、
「郁」にも「香気のさかんなさま」「花の美しくひらいて香を放つさま」
の字義があります。
他に「馥馥」とか「芳馥」「薫馥」などの熟語もあるようですね。
ちなみに、今話題の漢検では1級の問題のようですが^^;
当宮の境内の「馥郁たる梅の香」
ネットで伝わらないのが残念ですが・・・・
お近くの方は是非お越し下さいね。
「馥郁たる香りってどういう意味?」と質問を受けました。
前エントリーで紹介した記事の中に書かれています^^;
梅の香りですから、臭いにおいではなく、芳しい香りであることは想像できますよね^^;
正確性を期すため、辞書で調べてみましょう。
「馥郁(ふくいく)たる」というのは、形容動詞で、
とあります。ふく‐いく【馥郁】
〔形動タリ〕
香気の盛んにかおるさま。よいかおりのいっぱいに漂っているさま。
*異制庭訓往来〔14C中〕「萃万気之馥郁者。所以旌天地之精」
*読本・昔話稲妻表紙〔1806〕五・二〇「とめ木のかほり馥郁(フクイク)として蓮歩をうつす」
*米欧回覧実記〔1877〕〈久米邦武〉二・二三「花気薫し芬香常に馥郁たり」
*草枕〔1906〕〈夏目漱石〉八「只馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである」
*陳樵‐雨香亭詩「氛入几席、馥郁侵衣裳」
(日国オンライン)
手元の漢和辞典を見てみると、
「馥」は「かぐわしいさま」、
「郁」にも「香気のさかんなさま」「花の美しくひらいて香を放つさま」
の字義があります。
他に「馥馥」とか「芳馥」「薫馥」などの熟語もあるようですね。
ちなみに、今話題の漢検では1級の問題のようですが^^;
当宮の境内の「馥郁たる梅の香」
ネットで伝わらないのが残念ですが・・・・
お近くの方は是非お越し下さいね。
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[旅先から]神社参拝など
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[旅先から]神社参拝など
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[旅先から]神社参拝など
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社団法人日本青年会議所が領土問題に対し、運動を起こしたようです。

日本JC 国防問題検証委員会ホームページ
組織力・行動力には見習うべきものが多々ありますね^^;
JCの会員でもOBでもありませんが・・・・
とても大切なことだと思いますので、微力ながら協力させていただきたいと思います。
オンライン署名も出来るようです。
署名TV
早速ブログパーツを設置いたしました。(右下の方です。)
簡単に署名できますので、是非ポチッとクリックをお願いします。
(ついでに竹島の日制定の署名もね^^;)
日本JC 国防問題検証委員会ホームページ
組織力・行動力には見習うべきものが多々ありますね^^;
JCの会員でもOBでもありませんが・・・・
とても大切なことだと思いますので、微力ながら協力させていただきたいと思います。
オンライン署名も出来るようです。
署名TV
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(ついでに竹島の日制定の署名もね^^;)
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[神社神道の豆知識]人生儀礼
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一昨日の続きです。
古典文学の中の厄年の記載を見てきましたが、今日は古記録の中の記述を見ていきましょう。
東京大学史料編纂所の大日本史料総合データベースから一気に検索します^^;
綱文を検索範囲にして「厄」を検索してみましょう。
そして、年月日からその方の年齢を計算してみます。
●まず平安時代の記録から・・・
本文には「貞信公記抄」からの引用で、「・・・・是大流星占、縁御年合也」とあります。
●次に鎌倉時代です。
この出典を見てみると、吾妻鏡で「将軍家明年依相当太一定分御厄・・・」とあります。
●次に室町時代です。
●次に戦国時代です。
足利義尚9歳の明年10歳。
足利義尚11歳の明年12歳。
●次に江戸時代です。
ふう。
一気にコピペしましたが・・・・。
いろいろあって、面白いですね^^;
今日はここまで。
古典文学の中の厄年の記載を見てきましたが、今日は古記録の中の記述を見ていきましょう。
東京大学史料編纂所の大日本史料総合データベースから一気に検索します^^;
綱文を検索範囲にして「厄」を検索してみましょう。
そして、年月日からその方の年齢を計算してみます。
●まず平安時代の記録から・・・
朱雀天皇23歳のことですね。【編/冊】 大日本史料 1編8冊458頁
【和暦年月日】 天慶8年4月24日(09450040240) 1条
【綱文】 天台座主義海をして、仁王経一千部を読誦して、御厄年を禳はしむ、
本文には「貞信公記抄」からの引用で、「・・・・是大流星占、縁御年合也」とあります。
村上天皇36歳のことです。【編/冊】 大日本史料 1編10冊830頁
【和暦年月日】 応和1年1月8日(09610010080) 2条
【綱文】 (第二条)御厄年に依り、権律師喜慶をして、尊勝法を修せしめ、僧正延昌をして、延暦寺に不動法を修せしむ、又僧二十口をして、大般若経を転読せしむ、
皇太子とは尊仁親王(後三条天皇)のことで32歳です。【編/冊】 史料綜覧 2編902冊212頁
【和暦年月日】 治暦1年3月22日(10650030220) 1条
【綱文】 皇太后、米一百斛を延暦寺中堂に寄附あらせられて、皇太子の厄運を祈禳し給ふ、
これは白河天皇22歳ですね。【編/冊】 史料綜覧 2編902冊252頁
【和暦年月日】 承保1年6月28日(10740060280) 1条
【綱文】 参議源経信を伊勢に発遣し、宸筆の宣命を大神宮に奉り、災厄を祈禳し給ふ、
堀河天皇25歳の厄年。【編/冊】 大日本史料 3編7冊1頁
【和暦年月日】 康和5年5月4日(11030050040) 1条
【綱文】 御重厄等に依りて、尊星王法を修し給ふ、
白河法皇58歳です。
【編/冊】 大日本史料 3編11冊5頁
【和暦年月日】 天永1年8月8日(11100080080) 2条
【綱文】 (第二条)法皇、御厄御祈として、石清水八幡宮に御唐鞍及び御馬を献じ給ふ、
●次に鎌倉時代です。
明年の歳厄ということですから、源実朝21歳の厄でしょうか。【編/冊】 大日本史料 4編11冊341頁
【和暦年月日】 建暦1年12月28日(12110120280) 1条
【綱文】 実朝。栄西等をして、明年の歳厄を禳はしむ、
この出典を見てみると、吾妻鏡で「将軍家明年依相当太一定分御厄・・・」とあります。
これは後深草法皇の49歳の厄のことですね。【編/冊】 史料綜覧 5編905冊376頁
【和暦年月日】 正應4年8月1日(12910080010) 1条
【綱文】 後深草法皇、御重厄御祈の爲に、慈助法親王をして、常盤井殿に七佛藥師法を修せしめ給ふ、
●次に室町時代です。
これは足利義詮が10歳の厄です。【編/冊】 大日本史料 6編5冊407頁
【和暦年月日】 暦応2年1月是月(13390010660) 1条
【綱文】 足利義詮、歳厄を鶴岡八幡宮に祈る、
足利尊氏42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 6編9冊732頁
【和暦年月日】 貞和2年1月4日(13460010040) 1条
【綱文】 尊氏、三宝院賢俊をして、重厄を祈らしむ、
この年2回目の厄祓いでしょうか?足利尊氏42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 6編10冊167頁
【和暦年月日】 貞和2年10月13日(13460100130) 1条
【綱文】 尊氏、三宝院賢俊をして、地蔵法を修して重厄を祈らしむ、
足利直義43歳の厄ですね。【編/冊】 大日本史料 6編11冊363頁
【和暦年月日】 貞和4年1月18日(13480010180) 3条
【綱文】 入道尊円親王、冥道供を修し、直義の厄年を祈り給ふ、
足利尊氏53歳の厄です。【編/冊】 大日本史料 6編21冊188頁
【和暦年月日】 延文2年1月28日(13570010280) 2条
【綱文】 義詮、稲荷祇園両社をして、尊氏の歳厄を祈禳せしむ、
同じく足利尊氏53歳の厄。1月に続いての厄祓いです。【編/冊】 大日本史料 6編21冊206頁
【和暦年月日】 延文2年2月10日(13570020100) 2条
【綱文】 三宝院賢俊、身を以て尊氏の歳厄に代らんことを石清水八幡宮に祈る、
後光厳天皇33歳の厄。【編/冊】 大日本史料 6編31冊397頁
【和暦年月日】 応安3年1月30日(13700010300) 1条
【綱文】 北朝、前大僧正良瑜をして、禁中に金剛童子法を修し、後光厳天皇の御重厄を禳はしむ、是日、結願、良瑜に牛車を聴す、
これも後光厳天皇33歳。【編/冊】 大日本史料 6編32冊67頁
【和暦年月日】 応安3年4月1日(13700040010) 2条
【綱文】 北朝、入道尊道親王をして、禁中に帝釈供を修せしめ、尋で、如法仏眼法を修せしめて、後光厳天皇の御重厄を祈禳せしむ、
足利氏満21歳の太一定分の厄ですね。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊88頁
【和暦年月日】 康暦1年4月28日(13790040280) 2条
【綱文】 足利氏満、遍照院権僧正頼印をして、太一定分の厄を禳はしむ、是日、上杉憲方、伊豆より鎌倉に還る、
足利氏満27歳の太一定分の厄ですね。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊157頁
【和暦年月日】 至徳2年3月16日(13850030160) 1条
【綱文】 足利氏満、太一定分の重厄に丁るを以て、権僧正頼印をして、仁王経法を修せしむ、
足利義満33歳の厄です。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊190頁
【和暦年月日】 明徳1年1月18日(13900010180) 2条
【綱文】 義満、大僧正良瑜を請じて、尊星王法を其第に修し、重厄を祈禳す、
これも足利義満33歳。【編/冊】 史料綜覧 6編907冊192頁
【和暦年月日】 明徳1年5月9日(13900050090) 1条
【綱文】 義満、北斗七壇法を其第に修し、重厄を祈禳す、
足利義満42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 7編3冊812頁
【和暦年月日】 応永6年1月是月(13990010660) 2条
【綱文】 (第二条)義満、重厄祈禳の為めに、東寺長者俊尊をして、北野社に参篭せしむ、
これも足利義満42歳。【編/冊】 大日本史料 7編3冊816頁
【和暦年月日】 応永6年2月3日(13990020030) 1条
【綱文】 東寺寺務長者俊尊、義満の重厄祈禳の為めに、其渡領大和弘福寺及び同寺領同国河原荘を東寺に寄進し、義満、其寄進状に加判す、
足利義持32歳の明年ですから33歳の厄。【編/冊】 大日本史料 7編28冊171頁
【和暦年月日】 応永24年12月13日(14170120130) 5条
【綱文】 足利義持、明年重厄なるに依り、醍醐寺・東寺をして修法せしむ、
後小松上皇42歳の厄【編/冊】 史料綜覧 7編907冊441頁
【和暦年月日】 應永25年1月是月(14180010660) 1条
【綱文】 後小松上皇御重厄御祈、
これも同じく後小松上皇42歳。【編/冊】 大日本史料 7編30冊44頁
【和暦年月日】 応永25年正月是月(14180010660) 2条
【綱文】 後小松上皇御重厄御祈、
足利義持42歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊536頁
【和暦年月日】 應永34年5月18日(14270050180) 2条
【綱文】 義持、重厄に依り、理性院宗観をして、三條八幡宮に駄都護摩を修せしめ、報恩院隆寛をして、六條八幡宮に愛染護摩を修せしむ、
これも足利義持42歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊538頁
【和暦年月日】 應永34年7月18日(14270070180) 1条
【綱文】 義持、三寶院満済をして、護摩を修し、重厄を祈禳せしむ、尋で、又尊勝護摩、不動護摩、及び閣魔天を修せしむ、
足利義教36歳の明年ですから37歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊570頁
【和暦年月日】 永享1年12月30日(14290120300) 5条
【綱文】 義教、諸寺をして、明年の厄を祈禳せしむ、
足利義教38歳の明年ですから39歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊597頁
【和暦年月日】 永享3年12月27日(14310120270) 2条
【綱文】 義教、東寺をして、明年の歳厄を祈禳せしむ、
足利義教39歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊598頁
【和暦年月日】 永享4年1月7日(14320010070) 2条
【綱文】 義教、醍醐寺三寶院をして、愛染護摩法を同院に修して、歳厄を禳はしむ、
足利義教42歳の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊645頁
【和暦年月日】 永享7年1月23日(14350010230) 1条
【綱文】 義教、三寶院満済等をして、歳厄を祈禳せしむ、
これも足利義教42歳。二日後ですね。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊645頁
【和暦年月日】 永享7年1月25日(14350010250) 1条
【綱文】 義教、歳厄祈禳の為めに、護持僧を結番して、祈祷を輪修せしむ、
足利義教45歳。【編/冊】 史料綜覧 7編907冊676頁
【和暦年月日】 永享10年3月4日(14380030040) 2条
【綱文】 義教、大法を修して、歳厄を祈禳す、
足利義政26歳?の太一定分の厄。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊122頁
【和暦年月日】 寛正2年3月3日(14610030030) 1条
【綱文】 義政、興福寺をして、太一定分の厄を禳はしむ、
足利義政27歳。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊136頁
【和暦年月日】 寛正3年1月10日(14620010100) 1条
【綱文】 義政、歳厄を大神宮に祈禳す、
足利義政28歳。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊151頁
【和暦年月日】 寛正4年1月10日(14630010100) 1条
【綱文】 義政、歳厄を大神宮に祈る、
足利義政31歳の明年、32歳。【編/冊】 史料綜覧 7編908冊220頁
【和暦年月日】 文正1年11月28日(14660110280) 1条
【綱文】 義政、東寺をして、明年の災厄を祈禳せしむ、
●次に戦国時代です。
足利義政37歳、足利義尚8歳【編/冊】 大日本史料 8編6冊13頁
【和暦年月日】 文明4年12月21日(14720120210) 1条
【綱文】 幕府、伊勢大神宮祭主藤波秀忠に命じて、義政父子の重厄を祈禳せしむ、
足利義政38歳の明年39歳。【編/冊】 大日本史料 8編7冊115頁
【和暦年月日】 文明5年12月21日(14730120210) 1条
【綱文】 幕府、神宮祭主藤波秀忠に命じて、義政、義尚父子、明年の厄を禳はしむ、
足利義尚9歳の明年10歳。
後土御門天皇33歳の厄。【編/冊】 大日本史料 8編7冊439頁
【和暦年月日】 文明6年4月8日(14740040080) 1条
【綱文】 実相院僧正増運に勅して、御重厄を祈禳せしめ給ふ、義政供料を進献す、
足利義政40歳の明年41歳。【編/冊】 大日本史料 8編8冊342頁
【和暦年月日】 文明7年11月13日(14750110130) 1条
【綱文】 幕府、神宮祭主藤波秀忠をして、義政、義尚の明年の厄を禳はしむ、
足利義尚11歳の明年12歳。
勝仁親王12歳の明年のことでしょうか?ならば13歳【編/冊】 大日本史料 8編9冊902頁
【和暦年月日】 文明9年12月26日(14770120260) 1条
【綱文】 土御門有宣に命じて、皇子(勝仁)、の除厄祈祷の日時を勘進せしむ、
後土御門天皇42歳の厄。【編/冊】 大日本史料 8編15冊106頁
【和暦年月日】 文明15年1月23日(14830010230) 1条
【綱文】 今年御重厄に当らせらるゝに依り、近臣等、毎月京都平等寺(因幡堂、)薬師に詣でゝ、之を祈禳す、
これも後土御門天皇42歳。【編/冊】 大日本史料 8編15冊365頁
【和暦年月日】 文明15年4月30日(14830040300) 1条
【綱文】 御重厄に依り、諸社寺に命じて、之を祈祷せしむ、
後土御門天皇44歳の明年、45歳の星厄。【編/冊】 大日本史料 8編17冊782頁
【和暦年月日】 文明17年12月6日(14850120060) 1条
【綱文】 明年御星厄に依り、陰陽頭土御門有宗をして祈禳せしめらる、
後土御門天皇49歳。【編/冊】 大日本史料 8編35冊255頁
【和暦年月日】 延徳2年2月7日(14900020070) 1条
【綱文】 御歳厄に依り、薬師像一万四千体を摺写し、梶井尭胤法親王をして、之を供養せしめらる、
後土御門天皇50歳の明年、51歳。【編/冊】 史料綜覧 8編908冊677頁
【和暦年月日】 延徳3年12月29日(14910120290) 2条
【綱文】 諸社寺をして、明年の御重厄を祈禳せしむ、
後土御門天皇51歳。【編/冊】 史料綜覧 8編908冊680頁
【和暦年月日】 明應1年2月23日(14920020230) 1条
【綱文】 近臣を京都平等寺(因幡堂)、に遣して、御重厄を祈禳せしめらる、
後土御門天皇56歳【編/冊】 史料綜覧 8編909冊58頁
【和暦年月日】 明應6年12月13日(14970120130) 1条
【綱文】 近臣をして、月毎に平等寺(因幡堂)に代詣せしめ、歳厄を祈禳せしめらる、是日畢る、
柏原天皇49歳。【編/冊】 大日本史料 9編3冊861頁
【和暦年月日】 永正9年1月20日(15120010200) 1条
【綱文】 御重厄に依り、廷臣等を山城平等寺に遣し、祈祷せしめらる、尋で、天台座主三千院尭胤法親王をして、寿命経の摺写開眼供養を行はしめらる、
後柏原天皇57歳【編/冊】 大日本史料 9編10冊363頁
【和暦年月日】 永正17年1月24日(15200010240) 1条
【綱文】 (第一条)御重厄に依り、廷臣等、因幡堂薬師に代参す、
後奈良天皇39歳。
【編/冊】 史料綜覧 9編909冊758頁
【和暦年月日】 天文5年6月23日(15360060230) 2条
【綱文】 明年御歳厄に依り、宮女をして、七觀音に代参せしめらる、
武田晴信(信玄)25歳の厄ですね。【編/冊】 史料綜覧 9編910冊234頁
【和暦年月日】 天文14年是歳(15450660550) 1条
【綱文】 武田晴信、近江多賀社に除厄長壽等を立願す、
●次に江戸時代です。
後陽成天皇33歳。【編/冊】 大日本史料 12編1冊201頁
【和暦年月日】 慶長8年3月26日(16030030260) 1条
【綱文】 (第一条)御厄年なるにより、御近臣に命じて、因幡堂に代詣せしめ給ふ、
これも後陽成天皇33歳。【編/冊】 大日本史料 12編1冊446頁
【和暦年月日】 慶長8年8月21日(16030080210) 1条
【綱文】 (第一条)女院、天皇の宝算尚少く、且つ御厄年に当らせ給ふを以て、其周易御伝授の事を停め給ふ、
後水尾上皇42歳。
【編/冊】 史料綜覧 12編917冊151頁
【和暦年月日】 寛永14年2月18日(16370020180) 1条
【綱文】 曼殊院良恕親王をして、七箇日護摩法を修し、上皇の厄歳を禳はしめらる、
後水尾法皇58歳の明年、59歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 承應2年12月29日(16530120290) 1条
【綱文】 辛卯、勅して、神宮に明年法皇の歳厄を祈禳せしむ、
後西天皇18歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 明暦1年1月29日(16550010290) 2条
【綱文】 天皇の厄年に値るを以て、近臣、平等寺薬師堂に詣す、
徳川綱吉42歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 貞享4年12月4日(16870120040) 1条
【綱文】 戊申、将軍綱吉、厄年に當るを以て、代詣使を伊勢に遣し、物を神宮に献す、
徳川綱吉42歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 貞享4年12月15日(16870120150) 3条
【綱文】 幕府親藩及ひ老臣以下、将軍の厄年を以て物を献す、
中御門天皇18歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保4年是歳(17190660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値るを以て、侍臣をして、毎月因幡薬師に詣らしむ、
徳川吉宗42歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保10年11月28日(17250110280) 2条
【綱文】 将軍吉宗、厄年に値るを以て、高家横瀬貞顯をして、伊勢大神宮に代詣せしむ、
中御門天皇24歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保10年是歳(17250660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値るを以て、近臣をして、毎月因幡薬師に詣せしむ、
中御門天皇26歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 享保12年是歳(17270660550) 1条
【綱文】 天皇、厄年に値たるを以て、侍臣をして、毎月、因幡薬師に詣せしむ、
桜町天皇17歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 元文1年是歳(17360660550) 1条
【綱文】 天皇、厄歳に当るを以て、毎月近習をして因幡薬師に代詣せしむ、
徳川家重40歳でしょうか? 予めというのが微妙です^^;
【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 宝暦1年5月15日(17510050150) 2条
【綱文】 家重、流鏑馬を高田馬場に行ひ、豫め歳厄を穰ふ、又近侍に命して、穴八幡祠に代謁せしむ、
桃園天皇17歳。【編/冊】 史料綱文 99編冊頁
【和暦年月日】 宝暦7年1月26日(17570010260) 1条
【綱文】 戊午、石清水社家に勅して、天皇の厄を禳ひ、併せて皇子降誕を祷らしむ、七日、
ふう。
一気にコピペしましたが・・・・。
いろいろあって、面白いですね^^;
今日はここまで。
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頭の悪い私には、仕組みが良く理解できないのですが・・・・・^^;
エコアクションポイントなるものがあるそうですね。

エコ・アクション・ポイント公式サイト
神社といえば、鎮守の森です。
特に都市部においては、環境に大いに貢献しているとは思いますが、・・・・
更にプラスして何ができるでしょうか?
改めて考えて行かなくてはなりませんね。
エコアクションポイントなるものがあるそうですね。
エコ・アクション・ポイント公式サイト
神社といえば、鎮守の森です。
特に都市部においては、環境に大いに貢献しているとは思いますが、・・・・
更にプラスして何ができるでしょうか?
改めて考えて行かなくてはなりませんね。
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FMおかざき「心の宅急便」の18回目。
先週は節分祭でお休みでしたから、2週間ぶりの放送になりました。
明日の建国記念の日のお話しです。
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今日も暖かい日となりました。
お蔭で岡崎天満宮の梅も見頃を迎えつつあります。
さて、明日は何の日かご存知ですか?
そうです「建国記念の日」ですね。
「国民の祝日に関する法律」には、第二条に
「建国をしのび、国を愛する心を養う」日ですね。
「政令で定める日」とありますが・・・これは、
さて、この「建国記念の日」ですが、かつては2月11日は「紀元節」という祝祭日でした。
しかし、敗戦後、GHQにより廃止され、しばらく日本には建国を祝う祝日が無い状態がつづきました。
でもやっぱりそれは寂しいことですよね。
そしてその後、国民の要望により、ようやく昭和41年に「建国記念の日」として復活し、昭和42年2月11日から「建国記念の日」がスタートしたわけなんです。
(昭和42年・・・私の生まれ年ですね^^;)
「紀元節」というのは、紀元の始まりを祝う祝日で、明治5年に制定されています(旧暦から新暦への切り替えの時ですね)。そしてこれは、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に由来しているんです。
『日本書紀』卷第三、神武紀によると、
今から2669年前のことなんですね。
ここが日本という国の始まり=建国なんです。
我が国は125代に亘り連綿と繋がる皇室を中心にした国です。
世界でも有数の長寿国なんですよ。
これってすごいことですよね。
ところで、「皇紀」って聞いたことありますか?
初代天皇の神武天皇の即位を元年(紀元)とする日本の紀年法で、計算方法は西暦に660年を加えます。
今年は「皇紀2669年」ですね。
もう一つ豆知識を、この紀元節を祝う唱歌があるんです。
さてさて、明日は「建国をしのび、国を愛する心を養う」日ですから、神武天皇の建国にまつわるお話しをしましょう。
古事記や日本書紀の神話では、次のように語られています。
神武天皇東征の時、道案内をしたのが八咫烏(やたがらす)です。
ご存知ですか?
伝説の三本足のカラスで、これはサッカー日本代表のエンブレムのモデルにもなっています。
そう言えば明日もサッカー日本代表の試合がありますよね^^;
神武天皇の神話も思い出しながら応援・観戦されてはいかがでしょう。
建国やその国の成り立ちをお祝いする日は、世界中の国々でも決められています。
たとえば・・・・・
どの国も盛大にこの記念日をお祝いしていますよね。
でも、日本はイマイチ盛り上がりに欠けると思いません?
政府主催の奉祝イベントが無い。
マスコミも報道しない。
学校等でその意義が教えられていない。
などの理由が考えられそうですが・・・・・
少し寂しい気もします。
諸外国では調べてみると、独立記念日や革命記念日が多いことが分かります。
また、その歴史も浅くせいぜい100年から200年くらいのところが殆どです。
国が生まれたことが人々の意識の中に強烈な記憶として残っているのかも知れません。
それに比べて、日本のように古~く神話の時代からの歴史を有する国では、国があって当たり前という感覚なのかも知れません。
でも、日本でも奉祝の行事・イベントが全然行われていないわけではありません。
全国の神社では「紀元祭」が今でも齋行されています。
また、各地では民間団体主催の奉祝行事も行われています。
ちなみに今年(明日)の予定は・・・・
日本の建国を祝う会主催の「建国記念の日奉祝中央式典」が平成21年2月11日午後1時より、明治神宮会館にて開催されるそうです。安倍元首相の講演会や、原宿表参道周辺でのパレードもあるそうですよ。
この岡崎では・・・
建国記念の日岡崎奉祝祭が下記日程で行われます。
「有り難い」というのは、文字通りそうあることが難しいということ。
神話から国の始まりが語れる有り難さを感じながら、明日は我が国の歴史を振り返る一日にしたいものですね。
----------------------------------------------------------
今年は今上陛下御即位20年のお祝いの年でもあります。
建国記念の日は、国旗を揚げてお祝いしましょう!

先週は節分祭でお休みでしたから、2週間ぶりの放送になりました。
明日の建国記念の日のお話しです。
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今日も暖かい日となりました。
お蔭で岡崎天満宮の梅も見頃を迎えつつあります。
さて、明日は何の日かご存知ですか?
そうです「建国記念の日」ですね。
「国民の祝日に関する法律」には、第二条に
と規定されています。建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」日ですね。
「政令で定める日」とありますが・・・これは、
のことです。「建国記念の日となる日を定める政令」
内閣は、国民の祝日に関する法律(昭和二十三年法律第百七十八号)第二条の規定に基づき、この政令を制定する。
国民の祝日に関する法律第二条に規定する建国記念の日は、二月十一日とする。
* 昭和41年政令第376号 公布・施行: 昭和41年12月9日
さて、この「建国記念の日」ですが、かつては2月11日は「紀元節」という祝祭日でした。
しかし、敗戦後、GHQにより廃止され、しばらく日本には建国を祝う祝日が無い状態がつづきました。
でもやっぱりそれは寂しいことですよね。
そしてその後、国民の要望により、ようやく昭和41年に「建国記念の日」として復活し、昭和42年2月11日から「建国記念の日」がスタートしたわけなんです。
(昭和42年・・・私の生まれ年ですね^^;)
「紀元節」というのは、紀元の始まりを祝う祝日で、明治5年に制定されています(旧暦から新暦への切り替えの時ですね)。そしてこれは、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に由来しているんです。
『日本書紀』卷第三、神武紀によると、
とあります。この日が、新暦(西暦)でいう紀元前660年2月11日に当たるんです。●神武天皇の即位
辛酉年春正月、庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。
辛酉(かのととり)年の春正月、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)、
天皇(すめらみこと)橿原宮に於いて帝位(みくらい)に即(つき)たまう。
今から2669年前のことなんですね。
ここが日本という国の始まり=建国なんです。
我が国は125代に亘り連綿と繋がる皇室を中心にした国です。
世界でも有数の長寿国なんですよ。
これってすごいことですよね。
ところで、「皇紀」って聞いたことありますか?
初代天皇の神武天皇の即位を元年(紀元)とする日本の紀年法で、計算方法は西暦に660年を加えます。
今年は「皇紀2669年」ですね。
もう一つ豆知識を、この紀元節を祝う唱歌があるんです。
ご高齢の方で歌える方はいらっしゃるでしょうか?『小学唱歌 第一巻』明治25年(1892年)3月14日
紀元節 高崎正風
一、雲にそびゆる髙ちほの髙ねおろしに艸も木も
なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ楽しけれ
二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、天つひつぎの髙みくら千代よろづに動きなき
もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ楽しけれ
(http://www.d-score.com/ar/A04112411.html)
さてさて、明日は「建国をしのび、国を愛する心を養う」日ですから、神武天皇の建国にまつわるお話しをしましょう。
古事記や日本書紀の神話では、次のように語られています。
短い時間では、詳しくお話しできませんが、是非皆さんも本やインターネットなどで調べてみてくださいね。はじめにイザナギ、イザナミの神が、日本の国土と多くの神々をお産みになりました。
しかし最後にイザナミノミコトは火の神さまをお産みになり、全身にやけどを負い、亡くなられてしまいます。恋しい奥方を追って、イザナギノミコトは黄泉(よみ)の国(死者の国)へ行かれます。でも奥様の変わり果てた姿を見て慌てて帰ってこられました。
そのイザナギノミコトが黄泉の国からお帰りになり、川で身を清められた禊(みそぎ)時に、お生まれになったのが天照大神(あまてらすおおみかみ)です。
天照大神は神々の中心として高天原(たかまのはら)を治められ、やがてニニギノミコトに三種の神器(鏡、剣、勾玉)を授けて、高千穂(たかちほ)の峰に天降らせます。
ニニギノミコトの曾孫、神武天皇は、国中がいくつにも分かれて相争っていることを悲しまれ、「これではいけない。人々が安心して暮らせるようにしなければ」と、国を統一するご決心をなされます。
九州から瀬戸内を通って大和の国へ。途中、幾多の苦難にあわれながらも、神々の導きを受け、ついに大和の国を平定され、橿原の地(奈良県)で第一代の天皇の御位(みくらい)に即位されたのです。
神武天皇はご即位に先立ち「八紘一宇(はっこういちう)」世界をひとつの家のようにすることを理想として宣言されたと伝えられています。
神武天皇東征の時、道案内をしたのが八咫烏(やたがらす)です。
ご存知ですか?
伝説の三本足のカラスで、これはサッカー日本代表のエンブレムのモデルにもなっています。
そう言えば明日もサッカー日本代表の試合がありますよね^^;
神武天皇の神話も思い出しながら応援・観戦されてはいかがでしょう。
建国やその国の成り立ちをお祝いする日は、世界中の国々でも決められています。
たとえば・・・・・
などがあります。○独立記念日
アメリカ合衆国 7月4日 1776年イギリスからの独立が宣言された日
ブラジル 9月7日 1822年ポルトガルから独立した日
○革命記念日(解放記念日)
キューバ 1月1日 1959年キューバ革命を達成した日
フランス 7月14日 1789年フランス革命が始まった日
中華人民共和国 10月1日 1949年毛沢東が天安門で建国宣言をした日
どの国も盛大にこの記念日をお祝いしていますよね。
でも、日本はイマイチ盛り上がりに欠けると思いません?
政府主催の奉祝イベントが無い。
マスコミも報道しない。
学校等でその意義が教えられていない。
などの理由が考えられそうですが・・・・・
少し寂しい気もします。
諸外国では調べてみると、独立記念日や革命記念日が多いことが分かります。
また、その歴史も浅くせいぜい100年から200年くらいのところが殆どです。
国が生まれたことが人々の意識の中に強烈な記憶として残っているのかも知れません。
それに比べて、日本のように古~く神話の時代からの歴史を有する国では、国があって当たり前という感覚なのかも知れません。
でも、日本でも奉祝の行事・イベントが全然行われていないわけではありません。
全国の神社では「紀元祭」が今でも齋行されています。
また、各地では民間団体主催の奉祝行事も行われています。
ちなみに今年(明日)の予定は・・・・
日本の建国を祝う会主催の「建国記念の日奉祝中央式典」が平成21年2月11日午後1時より、明治神宮会館にて開催されるそうです。安倍元首相の講演会や、原宿表参道周辺でのパレードもあるそうですよ。
この岡崎では・・・
建国記念の日岡崎奉祝祭が下記日程で行われます。
入場無料だそうです。皆さん奮ってご参加してみてはいかがですか。日時 二月十一日 午前9時半より12時まで
場所 岡崎市せきれいホール (市役所東)
内容 式典 記念講演「建国に寄せて」元日本青年会議所会頭 池田佳隆氏
他に、城西高校和太鼓 日本舞踊などのアトラクションあり
主催 建国記念の日岡崎奉祝会 会長小田貞雄(岡崎市総代会連合会長)
「有り難い」というのは、文字通りそうあることが難しいということ。
神話から国の始まりが語れる有り難さを感じながら、明日は我が国の歴史を振り返る一日にしたいものですね。
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今年は今上陛下御即位20年のお祝いの年でもあります。
建国記念の日は、国旗を揚げてお祝いしましょう!

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[神社神道の豆知識]人生儀礼
| 604 |
*
厄年の話が途中になっていました。
(決して忘れていたわけではないですよ^^;)
さて、室町時代から江戸時代に広く用いられた漢和辞典「和玉篇」に「厄」字が載っています。

拡大すると・・・

「厄」の字に「ヤク」という音と、「なやむ」の訓が振ってあります。
正に今の私の心境でしょうか・・・^^;
前回までで、「色葉字類抄」や「拾芥抄」では、
厄年=13,25,37,49,61,73,85,97 となっていることがわかりました。
13歳から12刻み、所謂「年男」「年女」です。
ちなみに、沖縄の厄年は今でもこれだとか・・・・・。
もう一つ、太一定分の厄。
3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99,105
ですね。3歳から6歳刻みです。
下のサイトでこんな解説を見つけました。
ここにも、江戸時代以降「大厄」とされる「42歳」はありません。
では、平安時代や鎌倉・室町時代は「42」「33」の厄は無かったのでしょうか?
いくつか古典作品の中から「厄年」と思われる記述を探してみましょう。
先ずは、・・・
①「宇津保物語」楼上下(平安中期)です。
②「水鏡」〔12C後〕上・序には、
この龍蓋寺(岡寺)は厄除けで有名なお寺です。
③「栄華物語」のかがやく藤壷の巻には、「今年ぞ十三にならせたまひける、人のつつしむべき年にてもあり、宿曜などにも心ぼそくのみぞ云ひて侍れば・・・」
④「高国記」の下巻には、「太栄五年四月、高国四十二の重役とて出家す・・・」
とあるそうです。
(ごめんなさい。ネット上では本文テキストを発見できませんでした^^;)
13歳の厄、42歳の厄がでてきました。
他に有名なのは、「源氏物語」(1001~1014)です。
⑤「源氏物語」薄雲にはこうあります。
⑥「源氏物語」 若菜下では、
源氏物語の注釈書「細流抄」〔1525~34〕六には、「三十七にそ 此年の重厄(チウヤク)此物語に多し。女のつつしむべき年也」と書かれています。
37歳が女の厄年になったのは、この源氏物語が大きな影響を与えているのかも知れませんね。
また、
⑦「源平盛衰記」 〔14C前〕には
ただ、女性ではないですが・・・・。
何はともあれ、・・・
42歳や33歳、37歳が厄年として、古くから意識されていたことは間違いなさそうです。
次回は、他の古記録類も見ていきましょう。
(決して忘れていたわけではないですよ^^;)
さて、室町時代から江戸時代に広く用いられた漢和辞典「和玉篇」に「厄」字が載っています。
拡大すると・・・
「厄」の字に「ヤク」という音と、「なやむ」の訓が振ってあります。
正に今の私の心境でしょうか・・・^^;
前回までで、「色葉字類抄」や「拾芥抄」では、
厄年=13,25,37,49,61,73,85,97 となっていることがわかりました。
13歳から12刻み、所謂「年男」「年女」です。
ちなみに、沖縄の厄年は今でもこれだとか・・・・・。
もう一つ、太一定分の厄。
3,9,15,21,27,33,39,45,51,57,63,69,75,81,87,93,99,105
ですね。3歳から6歳刻みです。
下のサイトでこんな解説を見つけました。
これは、期日限定の厄ということのようですから、現在の厄年とはちょっと違いますね。(太一という神の遊行(ゆうぎょう)にあるく行宮(あんぐう)の方位と干支の循環とを結びつけた子午の年に生まれた人は寅申(いんしん)の年の三月と九月の子申の寅申の時が定分の厄にあたるという説)
(日刊 鼠小僧)
ここにも、江戸時代以降「大厄」とされる「42歳」はありません。
では、平安時代や鎌倉・室町時代は「42」「33」の厄は無かったのでしょうか?
いくつか古典作品の中から「厄年」と思われる記述を探してみましょう。
先ずは、・・・
①「宇津保物語」楼上下(平安中期)です。
何歳の厄年かは図りかねますが、「左大臣殿が厄年だと言うことで大宴会を・・・・」という記述です。左の大殿の厄年におはするとて、大饗せられねば、今二ところも、何かはとてあれば、「さうざうしかるべい年かな」と人いふ。
http://www.genji.co.jp/utsuho-sub.php?code=23207&file=utsuhoall.txt&word=%A4%B5%A4%A6%A4%B6%A4%A6%A4%B7%A4%AB%A4%EB
②「水鏡」〔12C後〕上・序には、
とあります。33歳の厄ですね。慎(つゝし)むべき年(とし)にて、過ぎにし二月の初午の日、龍蓋寺へ詣で侍(はべ)りて、やがてそれより、初瀬に、たそがれのほどに参(まゐ)り着きたりしに、年の積もりには、いたく苦しう覚えて、師のもとにしばし休み侍(はべ)りし程に、うちまどろまれにけり。初夜の鐘の声におどろかれて、御前に参(まゐ)りて通夜し侍(はべ)りしに、世の中うちしづまる程に、修行者の三十四五などにやなるらんと見えしが、経をいと尊く読むあり。かたはら近く居たれば、「いかなる人のいづこより参(まゐ)り給(たま)へるぞ。御経などの承(うけたまは)らまほしからむには、尋(たづ)ね奉(たてまつ)らん」と云ふに、この修行者言ふやう、「いづこと定めたるところも侍(はべ)らず。少しものゝ心つきて後、この十余年、世のなりまかるさまの心とゞむべくも見え侍(はべ)らねば、人まねに、もし後世や助るとて、斯様に惑ひ歩き侍(はべ)るなり」と言へば、「誠に賢く思(おぼ)し取りたる事にこそ侍(はべ)れ、誰も流石に此の理は思(おも)へども、眞しくは思(おも)ひ立たぬこそ愚に侍(はべ)るめれ。此尼、今まで世に侍(はべ)るは希有の事なり、今日明日とも知らず、今年七十三になんなり侍(はべ)る。三十三を過ぎ難く、相人なども申(まう)し合ひたりしかば、岡寺は厄を転じ給(たま)ふと承(うけたまは)りて、詣で初めしより、慎(つゝし)みの年毎に、二月の初午の日参(まゐ)りつる験にこそ、今まで世に侍(はべ)れば、今年慎(つゝし)むべき年にて、参(まゐ)りつる身ながらもをかしく、今は何にの命かは惜しかるべきと思(おも)ひながら、年此参(まゐ)り慣ひて侍(はべ)るに合せて、軈て此の御寺へも参(まゐ)らんと思(おも)ひ立ちてなん。
http://www.j-texts.com/chusei/rek/mzall.html
この龍蓋寺(岡寺)は厄除けで有名なお寺です。
③「栄華物語」のかがやく藤壷の巻には、「今年ぞ十三にならせたまひける、人のつつしむべき年にてもあり、宿曜などにも心ぼそくのみぞ云ひて侍れば・・・」
④「高国記」の下巻には、「太栄五年四月、高国四十二の重役とて出家す・・・」
とあるそうです。
(ごめんなさい。ネット上では本文テキストを発見できませんでした^^;)
13歳の厄、42歳の厄がでてきました。
他に有名なのは、「源氏物語」(1001~1014)です。
⑤「源氏物語」薄雲にはこうあります。
藤壷が37の厄年で体調を崩し、やがて亡くなってしまいます。[第二段 藤壷入道宮の病臥]
入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三月にはいと重くならせたまひぬれば、行幸などあり。院に別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくて、もの深くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御けしきなれば、宮もいと悲しく思し召さる。
「今年は、かならず逃るまじき年と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざりつれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたて、ことことしう思はむと憚りてなむ、功徳のことなども、わざと例よりも取り分きてしもはべらずなりにける。
参りて、心のどかに昔の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなる折少なくはべりて、口惜しく、いぶせくて過ぎはべりぬること」
と、いと弱げに聞こえたまふ。
三十七にぞおはしましける。されど、いと若く盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見たてまつらせたまふ。
「慎ませたまふべき御年なるに、晴れ晴れしからで、月ごろ過ぎさせたまふことをだに、嘆きわたりはべりつるに、御慎みなどをも、常よりことにせさせたまはざりけること」
と、いみじう思し召したり。ただこのころぞ、おどろきて、よろづのことせさせたまふ。月ごろは、常の御悩みとのみうちたゆみたりつるを、源氏の大臣も深く思し入りたり。限りあれば、ほどなく帰らせたまふも、悲しきこと多かり。
宮、いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず。御心のうちに思し続くるに、「高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心のうちに飽かず思ふことも人にまさりける身」と思し知らる。主上の、夢のうちにも、かかる事の心を知らせたまはぬを、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、思し置かるべき心地したまひける。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text19.html
⑥「源氏物語」 若菜下では、
とあり、紫の上の37歳の厄年を気遣う源氏の姿が描かれています。[第二段 紫の上、三十七歳の厄年]
かやうの筋も、今はまたおとなおとなしく、宮たちの御扱ひなど、取りもちてしたまふさまも、いたらぬことなく、すべて何ごとにつけても、もどかしくたどたどしきこと混じらず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる人は、世に久しからぬ例もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえたまふ。
さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、取り集め足らひたることは、まことにたぐひあらじとのみ思ひきこえたまへり。今年は三十七にぞなりたまふ。見たてまつりたまひし年月のことなども、あはれに思し出でたるついでに、
「さるべき御祈りなど、常よりも取り分きて、今年はつつしみたまへ。もの騒がしくのみありて、思ひいたらぬこともあらむを、なほ、思しめぐらして、大きなることどももしたまはば、おのづからせさせてむ。故僧都のものしたまはずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。おほかたにてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」
などのたまひ出づ。
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text35.html
源氏物語の注釈書「細流抄」〔1525~34〕六には、「三十七にそ 此年の重厄(チウヤク)此物語に多し。女のつつしむべき年也」と書かれています。
37歳が女の厄年になったのは、この源氏物語が大きな影響を与えているのかも知れませんね。
また、
⑦「源平盛衰記」 〔14C前〕には
治承三年二月二十二日、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を上表あり、今年三十三(さんじふさん)に成給ければ、重厄の慎とぞ聞えし。
http://www.j-texts.com/seisui/gsznb.html
と33歳の厄が出てきます。治承四年四月廿二日、新帝御即位あり。此御事大極殿(だいこくでん)にて被(レ)行事なれども、去し治承元年に焼にしかば、後三条院(ごさんでうのゐん)延久の例に任て、官庁にて有べかりしを、右の大臣兼実計申させ給けるは、官庁は凡人に取ば、公文所也。大極殿(だいこくでん)(有朋上P421)なからん上は、紫宸殿にて可(レ)被(レ)行と被(レ)仰けるに依、即其にてぞ有ける。康保四年十一月十一日、冷泉院御即位は、紫宸殿にて被(レ)行けり。其例いかが有べき。唯後三条院(ごさんでうのゐん)の御例に任て、太政官の庁にて、有べき物をと、人々被(レ)申けれども、右の大臣の恩計也ければ、子細に不(レ)及けり。中宮は弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給(たまひ)て、高御倉へ参らせ給(たま)ひける有様(ありさま)目出ぞ在ける。され共ひそか事には、様々の御さとしども有けるとかや。平家の人々、宗盛三十三(さんじふさん)の重厄の慎とて、去年より大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を辞給(たまひ)て出仕なし。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)薨じ給しかば、維盛、資盛、清経など色にて籠給へり。本意なかりし事也。左兵衛督知盛、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣計ぞ出仕有ける。後朝蔵人左衛門権佐定長、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所に参じて、昨日の御即位に御失礼もなく目出く難(レ)有由、細々と四五枚に書注して、二位殿(にゐどの)の御方へ進たりければ、入道殿(にふだうどの)も二位殿(にゐどの)も、咲まけてぞ御座(おはしまし)ける。
ただ、女性ではないですが・・・・。
何はともあれ、・・・
42歳や33歳、37歳が厄年として、古くから意識されていたことは間違いなさそうです。
次回は、他の古記録類も見ていきましょう。
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[気になるニュース]国のこと
| 602 |
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今日は「北方領土の日」です。
日露間で未だ解決されていない領土問題。
各地で早期返還要求大会が開かれています。
その想いは何時叶うのでしょうか・・・・。
もっともっと世論の盛り上がりが必要だと思うのですが・・・。
う~ん。。。
そう言えば、樺太の日露国境標石ってご存知でしょうか?
日露戦争後日本が領有することになった南樺太の国境北緯50°線に設置された標石です。
詳しくはこちら・・・
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s229-09-10karafuto.html
ちなみにこの標石、岡崎産の花崗石が使われているそうです。
そして岡崎の石工が設置したそうです。
このことが杉田謙一さんのブログ「草莽の記」に紹介されていました。
石工の嶺田さん・・・
当宮の氏子さんですね^^;
御縁を感じます。
今日一日、北の領土に想いを馳せ、早期返還を神明にお祈りしたいと思います。
皆さんもいかがですか?
日露間で未だ解決されていない領土問題。
各地で早期返還要求大会が開かれています。
一日も早く・・・・。「北方領土の日」 早期返還訴え、各地で大会(02/06 08:07)
「北方領土の日」の七日、道内では返還運動原点の地・根室市や札幌市で元島民らが大会を開き、北方四島の早期返還実現に向け、外交交渉の強力な推進と領土問題の国内啓発の充実を訴える。
根室市総合文化会館で開かれる「根室管内住民大会」には、同管内一市四町の元島民やその子や孫ら約千人が出席。
返還を求める決意を表明し、参加者全員でシュプレヒコールを上げて「原点の声」を全国に発信する。
札幌市中央区のさっぽろ雪まつり会場では、「北方領土フェスティバル」が開かれる。高橋はるみ知事や千島歯舞諸島居住者連盟の小泉敏夫理事長が返還実現への結束を訴え、元島民らが返還を求める署名活動を行う。
また、東京・九段会館では「北方領土返還要求全国大会」が開催される。
北方領土の日は、一八五五年二月七日に平和的、友好的な形で択捉島とウルップ島との間に日露国境を定めた「日露通好条約」が調印されたことにちなんで、一九八一年に閣議了解で設けられた。
(北海道新聞)
その想いは何時叶うのでしょうか・・・・。
もっともっと世論の盛り上がりが必要だと思うのですが・・・。
う~ん。。。
そう言えば、樺太の日露国境標石ってご存知でしょうか?
日露戦争後日本が領有することになった南樺太の国境北緯50°線に設置された標石です。
詳しくはこちら・・・
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s229-09-10karafuto.html
ちなみにこの標石、岡崎産の花崗石が使われているそうです。
そして岡崎の石工が設置したそうです。
このことが杉田謙一さんのブログ「草莽の記」に紹介されていました。
石工の嶺田さん・・・
当宮の氏子さんですね^^;
御縁を感じます。
今日一日、北の領土に想いを馳せ、早期返還を神明にお祈りしたいと思います。
皆さんもいかがですか?
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[岡崎天満宮]社務所から
| 601 |
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今日は初午(はつうま)です。
2月の最初の午の日という意味で、お稲荷さんの御縁日です。
全国のお稲荷さんの総本社である伏見稲荷の神様が降臨されたのが、和銅4年(711)2月初午だったことに由来します。
早朝から、企業の敷地内に御鎮座されているお稲荷さんの初午祭を何社か御奉仕させていただきましたが、時節柄、例年以上に熱心に商売繁盛祈願をされているようでした^^;
初午や屋敷屋敷の赤幟 〈獅子〉
初午や引たてみれば折暦 〈調季〉
お稲荷さんと言えば「狐」ですが・・・
こんな慣用句があるようです^^;
油揚げを沢山ほおばっている狐さまを横目に見る狸さま・・・。
川柳が出来そうですね。
初午に穴の狸の思案顔 江戸川柳
こんなのも見つけました。
さむがり狸 初午のたぬき 歌川国芳
(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 浮世絵)
2月の最初の午の日という意味で、お稲荷さんの御縁日です。
全国のお稲荷さんの総本社である伏見稲荷の神様が降臨されたのが、和銅4年(711)2月初午だったことに由来します。
早朝から、企業の敷地内に御鎮座されているお稲荷さんの初午祭を何社か御奉仕させていただきましたが、時節柄、例年以上に熱心に商売繁盛祈願をされているようでした^^;
初午や屋敷屋敷の赤幟 〈獅子〉
初午や引たてみれば折暦 〈調季〉
お稲荷さんと言えば「狐」ですが・・・
こんな慣用句があるようです^^;
なるほど。はつうま の 狸(たぬき)
初午の日には、狐はもてはやされるが、狸は手持ちぶさたである。他人ばかりもてはやされて、自分は相手にされないことのたとえ。
*洒落本・仕懸文庫〔1791〕四「初午(ハツムマ)の晩の狸(タヌキ)をみるやうに、気ばっかりあじにさせやアがるが」
*歌舞伎・盟三五大切〔1825〕序幕「悉皆おいらが身の上は、初午(ウマ)の狸といふものだ」
(日国オンライン)
油揚げを沢山ほおばっている狐さまを横目に見る狸さま・・・。
川柳が出来そうですね。
初午に穴の狸の思案顔 江戸川柳
こんなのも見つけました。
さむがり狸 初午のたぬき 歌川国芳
(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 浮世絵)
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[PC・ネット備忘録]更新履歴
| 600 |
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立春に相応しい穏やかなお天気の一日でした。
といっても、昨日の節分祭の後片付けに忙殺された一日でしたが・・・^^;
そんな中、今朝方当ブログのアクセスカウンターが「111111」をカウントしました。
このキリ番(これもキリ番と言うのかな?)をゲットされたのは北海道のNさんです。
おめでとうございました。
一昨年の秋、盛大な結婚披露宴に参列させていただいたことを思い出します。
さて、次のキリ番は何番に設定しようかな・・・。
といっても、昨日の節分祭の後片付けに忙殺された一日でしたが・・・^^;
そんな中、今朝方当ブログのアクセスカウンターが「111111」をカウントしました。
このキリ番(これもキリ番と言うのかな?)をゲットされたのは北海道のNさんです。
おめでとうございました。
と暖かいコメントを寄せてくださいました。おめでとうございます!いつも札幌から拝見しております。こちらとは気候が違うので、季節の写真など、楽しんでいます。結婚前は10年程、伊勢に住んでいたので、愛知や伊勢の事がアップされていると、とても懐かしいです。いつか機会が有りましたら、是非参拝したいと思っています。
一昨年の秋、盛大な結婚披露宴に参列させていただいたことを思い出します。
さて、次のキリ番は何番に設定しようかな・・・。
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[岡崎天満宮]お祭り
| 599 |
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本日、当宮の役員会を開催し、今年の梅まつりの日程が決まりました。
2月21日(土)と22日(日)です。
今年は見頃が昨年よりも早くなるだろうとの予想です。
両日とも、ご参詣の皆様にお汁粉の無料接待があります。
お楽しみに。
2月21日(土)と22日(日)です。
今年は見頃が昨年よりも早くなるだろうとの予想です。
両日とも、ご参詣の皆様にお汁粉の無料接待があります。
お楽しみに。
名前:一文字
