黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉れ。
元を元とし、本を本とする故なり。
当ブログ管理人の一文字です。
愛知県岡崎市の田舎神主。
融通の利かない頑固者です。
神社のこと、神道のこと、
世の中のこと、日々の出来事、
家族のこと、などなど。
私、一文字が、
気分次第で記していきます。
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FMおかざき「心の宅急便」の60回目の放送です。
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師走となりましたが、今日は師走らしくないくらい暖かい日ですね。
さて、昨日、松平元康公の石像の除幕式がありました。
岡崎葵ライオンズクラブの結成40周年記念事業で、JR岡崎駅の東口ロータリーに、元康公(若き頃の徳川家康公)の石像が寄贈されたのです。その除幕式があり、宮司と私でご奉仕させていただきました。当日の式典の様子は拙ブログでもご紹介させていただいております。
若き頃の家康はその当時何を見、何を考えていたのでしょうか?
松平元康と言う名前は、家康公が元服から21歳までの名前です。
まさに青年時代の家康公です。
ちなみに「元康」と言う名前は、今川義元の「元」を貰ったのだそうです。
さて、若き頃の元康公ですが、元服後・・・
永禄元年(1558)に、織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を攻めました。これが初陣です。
永禄2年(1559)3月には、長男(信康公)が誕生します。家康公17歳のことですね。
そして永禄3年(1560)5月、家康公にとって運命の時がやってきます。有名な「桶狭間の戦い」です。今川義元が織田信長に討たれるという戦です。
この時、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城を攻略中であった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立したとされています。
また、大樹寺で切腹を図ろうとしたとも伝わっています。しかし、住職より「泰平の世を築くべく生きよ」と諭された家康は切腹を思いとどまり、今川家からの自立を決意したというのです。
いずれにしても、大きく悩み、そして思い切った決断をしたことは確かでしょう。
2年後の永禄5年(1562)、信長との清洲同盟が成立します。今川から織田へ。まさに戦国の世の習いともいえましょうか。敵が味方に、味方が敵に、大変なドラマがあったことでしょう。
そして永禄6年(1563)には、「元」字を返上し、「家康」と改名します。
名実共に今川家と袂を分かつことになったのです。
また同じ頃、永禄6年(1563)~永禄7年(1564)には、三河一向一揆がありました。
本證寺(ほんしょうじ・安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(しょうまんじ・岡崎市針崎町)を拠点にした一向衆との戦いは、さぞ元康を悩ませたことと思います。
今回元康像が建立されたのも、勝鬘寺の近くですよね。なにか因縁めいたものを感じます。
当時の元康公は弱小大名です。如何に苦労が多かっことでしょうか。
また戦国の激動の時代を如何に見つめたのでしょうか。
そして、混沌とした現代の世情を如何に見つめているのでしょうか。
さて、石像の周りには松の木が植えられました。三河黒松は岡崎市の木(昭和46年12月21日告示第56号)ですね。そしてこの松の木は以前市役所前の太陽緑道に植えられていたものを移植したものです。
話は少し飛びますが、家康と門松の由来にちなんだおもしろい話があるのでご紹介します。
菊池貴一郎の『絵本江戸風俗往来』(一九六五年・平凡社東洋文庫)という本に載っている「将軍家吉例門松御飾り」という話です。
三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田信玄に敗れ、浜松の居城へ逃げこみました。
武田勢は、なぜか勢いに乗って浜松城を取り囲んだのですが、正月を迎えたため、一時休戦となりました。
このとき武田側からの使者が新年の挨拶にひとつの句をもってきたといいます。
これに対し徳川方の智将酒井忠次は、この句に少しだけ手を加えて信玄のもとに送り返しました。
この機知に富んだ対応に、こんな智将がいるのでは迂闊に城攻めはできないと考えたのかどうか、やがて信玄は兵を引く。あげくに、そのあと武田勢はどんどん衰えていくのです。
かたや、家康の武運はそれから開けて天下をとるにいたり、戦乱おさまり、泰平の江戸時代となります。
江戸城のすべての門には毎年、先(首)を切り落とした三本の竹でこしらえた縁起のよい門松が飾られるようになったというものです。
つまり門松の切り口が斜めになっているのは、敵対する軍勢の大将の首を切った形ということですね。
もうすぐお正月です。
門松にこんなエピソードがあると知って見つめると、趣が違ってくるかもしれませんね。
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師走となりましたが、今日は師走らしくないくらい暖かい日ですね。
さて、昨日、松平元康公の石像の除幕式がありました。
岡崎葵ライオンズクラブの結成40周年記念事業で、JR岡崎駅の東口ロータリーに、元康公(若き頃の徳川家康公)の石像が寄贈されたのです。その除幕式があり、宮司と私でご奉仕させていただきました。当日の式典の様子は拙ブログでもご紹介させていただいております。
若き頃の家康はその当時何を見、何を考えていたのでしょうか?
松平元康と言う名前は、家康公が元服から21歳までの名前です。
まさに青年時代の家康公です。
ちなみに「元康」と言う名前は、今川義元の「元」を貰ったのだそうです。
さて、若き頃の元康公ですが、元服後・・・
永禄元年(1558)に、織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を攻めました。これが初陣です。
永禄2年(1559)3月には、長男(信康公)が誕生します。家康公17歳のことですね。
そして永禄3年(1560)5月、家康公にとって運命の時がやってきます。有名な「桶狭間の戦い」です。今川義元が織田信長に討たれるという戦です。
この時、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城を攻略中であった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立したとされています。
また、大樹寺で切腹を図ろうとしたとも伝わっています。しかし、住職より「泰平の世を築くべく生きよ」と諭された家康は切腹を思いとどまり、今川家からの自立を決意したというのです。
いずれにしても、大きく悩み、そして思い切った決断をしたことは確かでしょう。
2年後の永禄5年(1562)、信長との清洲同盟が成立します。今川から織田へ。まさに戦国の世の習いともいえましょうか。敵が味方に、味方が敵に、大変なドラマがあったことでしょう。
そして永禄6年(1563)には、「元」字を返上し、「家康」と改名します。
名実共に今川家と袂を分かつことになったのです。
また同じ頃、永禄6年(1563)~永禄7年(1564)には、三河一向一揆がありました。
本證寺(ほんしょうじ・安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(しょうまんじ・岡崎市針崎町)を拠点にした一向衆との戦いは、さぞ元康を悩ませたことと思います。
今回元康像が建立されたのも、勝鬘寺の近くですよね。なにか因縁めいたものを感じます。
当時の元康公は弱小大名です。如何に苦労が多かっことでしょうか。
また戦国の激動の時代を如何に見つめたのでしょうか。
そして、混沌とした現代の世情を如何に見つめているのでしょうか。
さて、石像の周りには松の木が植えられました。三河黒松は岡崎市の木(昭和46年12月21日告示第56号)ですね。そしてこの松の木は以前市役所前の太陽緑道に植えられていたものを移植したものです。
話は少し飛びますが、家康と門松の由来にちなんだおもしろい話があるのでご紹介します。
菊池貴一郎の『絵本江戸風俗往来』(一九六五年・平凡社東洋文庫)という本に載っている「将軍家吉例門松御飾り」という話です。
三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田信玄に敗れ、浜松の居城へ逃げこみました。
武田勢は、なぜか勢いに乗って浜松城を取り囲んだのですが、正月を迎えたため、一時休戦となりました。
このとき武田側からの使者が新年の挨拶にひとつの句をもってきたといいます。
松は「松平」の松をさし、竹は「武田」をさしています。松平家は滅んで武田家のみが栄えゆく、よき年の始めであることよ、という意味でしょう。松枯れて竹たぐひなきあした哉
これに対し徳川方の智将酒井忠次は、この句に少しだけ手を加えて信玄のもとに送り返しました。
松(松平)は枯れずに武田信玄の首がとぶ、なんともめでたい元旦であることよ、と。松枯れで武田首なきあした哉
まつかれて たけたぐひなき あしたかな
よく比べてみてください。仮名で並べて書くと酒井忠次の返した句は、たんに濁点を加え、あるいは濁点の位置を変えただけのこと。澄むと濁るじゃ大違いですね。まつかれで たけだくびなき あしたかな
この機知に富んだ対応に、こんな智将がいるのでは迂闊に城攻めはできないと考えたのかどうか、やがて信玄は兵を引く。あげくに、そのあと武田勢はどんどん衰えていくのです。
かたや、家康の武運はそれから開けて天下をとるにいたり、戦乱おさまり、泰平の江戸時代となります。
江戸城のすべての門には毎年、先(首)を切り落とした三本の竹でこしらえた縁起のよい門松が飾られるようになったというものです。
つまり門松の切り口が斜めになっているのは、敵対する軍勢の大将の首を切った形ということですね。
もうすぐお正月です。
門松にこんなエピソードがあると知って見つめると、趣が違ってくるかもしれませんね。
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